僕は全然ならないと思っている。
4Kは「コンテンツ」レベルの、
映画より一段低いものにしかならないと考えている。
4K、あるいは2Kですら、
肉眼の分解能を超えている。
我々には動体視力があり、
それは静止視力より弱い。
つまり、静止画で確認できるものよりも、
動画の分解能は低い。
2Kだと静止画はまだ分解能が足りない気がするけど、
4Kのアップなんか分解能がありすぎる。
動画を考えれば、
結局我々が認識しているものよりもはるかに情報量過多である。
で、4Kのコンテンツは、
結局、「画面の一部を見て楽しむ」ものになっている。
たとえば「街のヒキ絵を見て、一部の区画で起こっていることを見る」とか、
「チアガールが踊っているヒキ絵を見て、
好みの子の踊りだけをただ見る」とか、
「全天型VRに使うが、結局首の向きはその半分の視野角だし、注視点はたかだかその一部」
とかになるということだ。
つまり4Kは演劇とか、
円形競技場でしかない。
技術の発展、文法の発展の成果である映画に対して、
一段昔のものの楽しみ方しか提供していない。
そもそも映画は、
モンタージュによって、
「視点を誘導する」という文法を得た。
ヒキで状況を見せ、
ヨリでその人の気持ちや行動をアップにする、
ということだ。
物語は、
その人にスポットライトを当てて、
それ以外を見せない手法で発展してきた。
どうスポットを当てて、何にスポットを当てないか、
という選択そのものが、
映画文法である。
ところが4K、演劇、スポーツなどの円形劇場は、
スポットを当てずに、
まるごと全部見てください、どこを見てもOKです、
という娯楽である。
どこに注視点を持ってくるかは自由に選択できる。
これに対して、映画というのは、
「ここを見て、次はここを見て」
という絵作りをしている。
いわばライドである。
この、根本的な違いが、
映画が4Kにならない理由だ。
もちろん、4Kの機材で映画を撮ることはできるが、
コストは通常よりかさむし、
映っちゃいけないものまで映ってしまうから、
そのケアがたいへん面倒だし、
(女優の毛穴とか整形の跡とか、ヅラの境目とか、
後ろにいる人の顔とか、映っちゃいけない看板とか)
そのコストをかける意味がない。
そもそも肉眼より情報量が多いから、
そんな動画は見ているだけで疲れる。
こうした反省が、
「4K映画は無理」という流れになりつつあるが、
現場コストが分かっただけで、
じゃあなんでだ、
という議論はほとんどされていない。
「モンタージュでものを語る」こと、
つまり視点を誘導していくことが、
映画の本質であることが、
議論されていない。
(現場レベルでは議論されているかもしれないが、
おもに技術部やコスト管理でしか議論されていないような気がする)
それで「映画というものは、
最新の技術である4Kに追い付いていない、
昔の娯楽である」なんて誤解しているバカがいる。
そうじゃない、
4Kでできることは、
すでにギリシャローマ時代に出来ていたものを、
バーチャルで再現することにすぎないのだ。
娯楽として進化したものを、
退化させているんだよな。
たとえばマイクの発達によって、
演劇では場に反射させて増幅していた俳優の発声法が、
失われていると見える時がある。
単に大声を出すのではない、腹式の発声が出来てないなどだ。
それは、その発声を前提とした楽譜(シナリオ)を、
表現しきれていないことになる。
VRでやっていることも、
VTuberがやっていることも、
所詮は現実世界の代替でしかなくて、
「それでしかできないこと」ではないっぽい。
しかし映画のモンタージュや、感情移入という行為は、
映画にしかできない娯楽の在り方だ。
(小説でもできるけど、ビジュアルが足りないよね)
そうした本質的な議論が、
4K界隈では行われていないなあと思ったんだよね。
これらを鑑みれば、
4Kが得意なのは、
「総覧的なもの」といえるだろう。
宝塚の大階段レビュウとか、
フォーメーションを組むスポーツとか、
何かのカタログとか、
そうしたものだと思う。
じゃあ、生で宝塚に行ったり、
競技場にいけばいいじゃんね。
結局4Kが出来るものは、
「ライブに足りない代替物」でしかない。
という議論をすると、
4Kを売り、推進しようという人たちから煙たがられる。
じゃあ生で演劇見るより面白いものをつくってみろや。
ぼくらは機械でない。生の人間だ。
生の人間が提供する娯楽以上の何かを、
機械で提供できるのかね。
CGでつくれるのは、代替品でしかないからね。
コンピューターが進めば進むほど、
生の人間の娯楽がクローズアップされるのは、
ものすごい皮肉だよね。
2021年07月03日
この記事へのコメント
コメントを書く