以下のツイートが面白かったので引用。
> ひびき遊@なぜか大型二種持ちラノベ作家
> 映画「100日間生きたワニ」レビュー https://nlab.itmedia.co.jp/nl/amp/2107/09/news044.html
> 私は専門学校の講義で「嫌いなもののレビュー」をさせた後、同じものを「無理矢理褒めるレビュー」を書かせてる。
要は文章テクニックだけで「嘘をつかずに褒めることは可能」ということ。
> リンク先がそのよいサンプルです。
つまり、本人の気持ちや信条と、
同じ方向のものを書く練習と、
真逆の方向のものを書く練習だね。
無邪気な人は、
表現というものは、
「作者の真実を書いたもの」という先入観があるように思える。
おそらく正直に生きてきて、
嘘は悪いことだと思っていて、
自分の言うことは正直なこと、
という人だろう。
そんな人は表現に向いていない。
表現とは嘘をつくことである。
嘘八百合戦の、手練手管の化かし合いの世界大会である。
「作者の気持ちを答えよ」なんて問いはナンセンスだ。
「いい女抱きてえなあ」と作者が思いながら、
日本国憲法を書くことは可能である。
それが文章力ということだ。
表現者を目指すものは、
まずそれが出来なければならない。
すなわち、
書く本人と、書かれた文章の分離である。
シナリオの初心者は、
自分を主人公にしてしまう。
それがそもそもの間違いだ。
小説は「私」表記をするが、
この「私」は作者の実人生ではなく、
架空の、別の人間のことである。
おっさんが「私」と女子高生を書くこともできるし、
AIが「私」と称して菅首相を書くこともできる。
物語は事実ではない。フィクションである。
自分と主人公を分離できないと、
自分の限界が主人公になってしまい、
あなたがすごくないと主人公がすごくないことになる。
あるいは、
他人に起きたらおかしいと判断できる御都合主義を、
自分だからとスルーしてラッキースケベを楽しむ過ちを犯す。
主人公は他人である、
と僕はよく書くけど、
それはつまり、
あなたの気分や思想や信条は、
書く文章と関係ないということである。
その訓練をするために、
真反対のレビューを書くことは、
いい訓練になるだろう。
ディベートの訓練も同じだよね。
どちらがどうと思ってるかは関係なく、
論理だけで勝ち負けを構築する訓練をする。
だから、
賛成のものに反対する論を組んだり、
その逆をしたり、
どちらでもないのにあえてどちらかの陣営として戦う訓練をする。
まるで傭兵みたいだ。
じゃあ、
そんな嘘つきになれたとしよう。
嘘八百で、愛してもいないのに愛してると言って、
女を落とすことが出来るとしよう。
作家は罪深き存在だろうか?
僕はそうではないと考えている。
あなたの気持ちと離れて書かれたその文章が、
何を目的としているか、
ということなのである。
その文章が人を助けたり、勇気づけたり、
世界をよくしていくならば、
あなたの気持ちや信条がどうであろうと関係なく、
犯罪者であろうとなかろうと、
あなたの文章は価値がある。
あなたがどう思おうと、どんなに聖人君子であろうと、
世界を悪くする文章は悪である。
作者と文章は関係がない。
全く同じなのは、文章表現者のスタート地点にすらたどり着いていない。
ねとらぼの文章は、
書き手がほんとうにそう思って書いたかどうかは、
本人しか分からないレベルの、
プロの文章だ。
しかし何らかの理由によって、
良くもない作品を傑作と認定することは、
創作の神様に背く行為で、
悪であると思う。
ガラスの仮面理論だ。
どんな仮面を被ろうが構わない。
だが結局は、
「その文章の目的」で、
あなた自身の仮面は、ガラスとして透けるのである。
2021年07月11日
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