2021年07月19日

解像度があがる

僕は短編を何本も何本も書け、
出来れば100本、1000本、
と口酸っぱく言っている。

なぜか。

素人レベルから、玄人レベルに解像度を上げるためだ。


絵描きを想像しよう。

素人の絵描きと玄人の絵描きの差はなんだろう。
色々な実力があると思うけど、
世界の解像度が全然違うことがよくある。

物の形をすごくよく知っている。
表面に現れた形だけじゃなくて、
その中の骨や筋肉、
メカならばその構造体やネジの位置まで知っている。
それらが相互作用して出来たのが、
今表面に現れた形だという風に、
ものを見ている。

光のことをよく知っている。
直射光だけでなく、反射光や間接光を知っている。
どこから光が来てどこに反射するかもだ。
たとえば机の上の静物を描く時、
机の反射が静物に当たることは、
それを知らないと想像すらできない。

補色や同系色を知っている。
どうしたら似て、どうしたら逆になるかを知っている。

あるものを見た時の、
理解の解像度が違う。

仮に玄人レベルの手業を持っていても、
目がぼんくらならば、
そのレベルの絵しか描けない。

仮に素人レベルの手業しかなくても、
目が玄人レベルで解像度が高ければ、
正確な世界がタッチは微妙だが描ける。

後者の方が絵になるだろう。



解像度は単なるピクセル数のことではなく、
世界の理解の仕方や、
「こういう表現はこういう時に使える」
なんてことの積み重ねだ。

シナリオも同じだ。

プロット、キャラクター、シチュエーション。
パーツに分解したり再組み立てする能力。
色々なパーツとテーマの関係。
リライトの力。

素人レベルの解像度ではじめたら、
ろくなシナリオにならないのは明らかだ。

じゃあ名作を沢山見れば解像度はあがる?
あがるよ。
でもパーツに分解してなければ、
解像度はあがらない。
自分で分解して再組み立てして、
はじめて「それがどうやってできてるか」を理解できるからね。

目が良くなっても、
手がヘボければヘタウマのシナリオにしかならない。

目だけでなく、手も一流にすることだ。
解像度の高い手があれば、
解像度の高い世界を書き分けられる。


そしてそれって、なかなか成長しない。
自分のやったことを振り返って、
「あのときはこの程度の解像度しかなかったなあ」
と、はじめて分かるレベルだ。

それは、自分の解像度があがって初めてわかることなのだ。


だから、短編を何度でも完結させる練習だ。

オチまでやらないと、
世界の解像度は上がらない。
「オチまで書けなかった作品」の解像度はあがるかもだけど。

完結して、世の中の他の作品と比較して、
はじめて解像度があがると僕は思う。

反省をするからだ。


反省もせずに解像度はあがらない。
悔しかったり、傷ついたり、落ち込んだりして、
「これじゃだめなんだ」と腹の底から理解しない限り、
「もっと世界を細かく考えよう」と思わないだろう。
「こんなんでOK」から、
「これでいいのか?」と考え方を変えない限り、
世界の解像度は粗いままだ。


何度も何度も完結させると、
ストーリーの全体像への解像度があがる。
全体と部分の関係の解像度があがる。

そうして、自分の一挙一動への解像度も上がる。

そのPDCAサイクルを回すのは、
二時間シナリオじゃなくて、
1分、3分、5分、10分、15分、30分の、
短編シナリオだと思うよ。

二時間1本しか書いたことないやつよりも、
15分を100本書いたやつのほうが、
遥かにシナリオの解像度が高くなっているよ。
posted by おおおかとしひこ at 03:33| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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