2021年07月19日

小山田の件の僕のスタンス

作品と人は異なる、という立場ではないな。
「そもそも創作をする人は頭がおかしくないと出来ない」
という立場なので。


創作する人は、
世の中から拒絶された人である。
極論ぼくはそう思う。

「ふつうのひと」なんて世の中にはいないのだが、
特に日本はふつうであることが強く求められる社会で、
そこから少し外れた人を、強く排斥する習性がある。

だからみんな、少し外れやしないか、とびくびくして、
疲れている。
表面上は外れてなくても、
心は少し外れていて、
そのギャップに心が痛んでいる。

創作はそれを救う。

もっと外れた人がいるぜと。
もっとおかしな人がいるぜと。

だからお前の外れなんて大したことねえぞ、と相対化して、
もっと前向いて生きようぜ、
とする力がある。

そもそも創作物に救われる人は、
「ふつうのひと」ではない。
ふつうのひとは創作物では救われない。
金や愛情で救われる。

それじゃあ救われない人が、
ふつうのひとから外れる。
それを、創作物が救う。

はずれた感覚のことを、疎外感という。

教室の後ろの席で、ずっと空ばかり眺めている中学生がいる。
本の世界に行きっぱなしの人もいる。
真面目な事務員だけどジャニコン全通の人もいる。

彼らはふつうのひとでもあるが、
少し外れかかった人だ。

外れたらふつうの社会は立ち行かなくなるが、
少し外れた状態なら、
ふつうと外れの間で振動して、
まあなんとかなっていく。


創作を続ける人は、その枠からはみ出した人のことである。
もうそれしか出来ないほどにだ。

だから人の心を打つ。
人の心を打つものは、普通じゃないものだ。
ふつうでないものが、人をふつうに戻すのだ。



小山田の過去に関しては、
許すとか許さないとかの話ではない。

だけど、ふつうじゃないことは、
創作をする者として当たり前である。

まともな感性なら、まともな社会人をしてたろう。
時々外れそうになりながら、ふつうに戻りながら、
ときどき他の人の創作物を摂取しながら。

だが彼はふつうじゃないがゆえに、創作の世界にいる。
いじめることと創作物は関係がないし、
心の奥底で繋がっている。


ぼくは、ふつうじゃない人を、
ふつうじゃないという理由で排斥するべきではないと考える。
コーネリアスの音楽がすばらしければ、
それを買えばいい。
音楽がすばらしくないなら、否定すればいい。

ふつうじゃないという理由で、
ふつうじゃない方がいい仕事を、
奪わないでくれ。
それがふつうの感覚だから、
僕らはそこからはずれたのだ。



本人が決めることじゃない。
本人は常に依頼の形でしか仕事ができない。
首にするかどうかは、雇った人間が決めることだ。

(そして東京五輪は、主催者の考えや哲学が、
まるで見えてこないことが、この大きな不信の原因だとは思うが)


先日の仕事で、
逮捕歴があったエキストラをCMに出すかどうかで揉めた。
僕は、
「正しく逮捕されて正しく罪を償ったのなら、
関係ないのではないか」と答えたが、
上の人が忖度して別の人に変えさせられた。

雇う人間の考えだからどちらでもよいが、
逮捕歴で仕事に関わるならば、
それは差別というものだろう。

「犯罪を犯した人だから次どうするか分からない」
とするのは単なる怯えで、偏見で、差別だ。
罰は行為になされるべきで、思想になされるべきではない。
「そういうことを考えるやつは、次もそうするぞ」は、
単なる怯えであり、次にそうしたら罰すれば良い。


最近、文化に対する理解が後退して、
中世に戻りつつあるような気がする。

おれたちは吟遊詩人で河原乞食で、
ふつうの道からはずれ、
決してセレブや権力になることは出来ない者たちだ。

だから、
ふつうじゃないメロディを出して、
ふつうじゃない物語を語るのだ。

小山田はむかつく。ゆるせん。それだけ。
小山田の音楽はすばらしい。それだけ。
小山田の最近の音楽はそうでもない。それだけ。
次の小山田の音楽はすごいかもしれないし、だめかもしれない。それだけ。
小山田が過去に悪行をしたのだとしたら、
その罪分罰すればいい。時効だろうからもはや罪は問わない。
それが近代法治国家である。
次にどんな音楽を作るかで評価すれば良い。それだけだ。


もっとふつうの音楽で開会式をやっても構わないよ。
東京五輪は、芸術ではないからね。



(追記)
辞任したそうです。
ふつうの人がふつうじゃない人を雇うと、
こういう、ことなかれの首切りがいつもある。
そしてふつうの世界になっていく。

芸術とは、世界の狂気とどう付き合うか、だと思う。
ふつうの人は、ふつうじゃない人と、
どう付き合うかを今回の件は如実に示した。
これが多様性だろうか。

僕は多様性とは都合のいい人たちを集めることではなく、
都合の悪い人たちとも付き合っていくことだと思う。
posted by おおおかとしひこ at 15:09| Comment(13) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
大岡さんの仰っていることが少し違うのではと思ってしまったのでコメントしましたが、否定するつもりではなく、私が感じたことを押し付けるつもりもないです。

私は、小山田さんが普通でないことに問題があったのではなく、いじめを行ったということに問題があったのだと思います。

私も、普通でなくとも許容される、またはほっといてもらえる社会があるべきだと思います。
ですが、普通でないことを理由に他者を傷つけるのは許されるべきではないです。

私は障害を持つ方々も「普通ではない」と思います。そして、彼らが受けるいじめは、自分たちと違うから、つまり「普通でない」ものを排斥しようという思考による行為だと思います。
小山田さんが普通でないことを許されるならば、小山田さんも障害を持つ同級生を許さなければいけないはずです。
普通でないのを許容することを求めるならば、自分だって他者を許容しなくてはならないと思います。

また、オリンピックという大会はスポーツを通した人間育成と世界平和を目的としたものであるということ、オリンピックにはパラリンピックという対が存在するものであることが大きいと思います。

障害者に対するいじめを行った人は、それが過去の行為であったとしても、東京五輪・パラ五輪を背負うのに適任なのか、それが問題のポイントだと感じました。

個人的には、音楽の善し悪しももちろん大切ですが音楽を作る人の目指すものがどれだけ大会の目的に沿っているかを判断の基準として重視して欲しかったです。


突然長々とコメントしてしまいすみません。
勢いで書いてしまっているので、大岡さんの仰っていることを正しく読み取れていないかも知れませんし、私の言いたいことはもうとっくのとうに過ぎた話であって、あえてその先について書かれているのかも知れません。もしそうでしたらお時間を無駄にさせてしまい申し訳ないです。
Posted by 加藤 at 2021年07月21日 15:06
加藤さんコメントありがとうございます。

多様性というのはどこまでを定義するかという問題になると思います。
憎むべきものが隣にいることを認めるのか、
憎むべきものが義務を果たさないことを認めるか、
ということと関係すると思います。

ぼくは「それは法律で決めれば?」と思う立場です。
法的には彼の行為は時効です。
もし遡って罪を追求するべきなら法律を変えればいいし、
罪を償う法律である以上、
法的に罪を償ったあとになお「許されない」と排斥されることも、
許されないと思います。

そのような議論やスタンスをあきらかにせず、
「世間を騒がせた罪」で臭いものに蓋をする行為が、
僕は一番愚かだと思います。

障害者にウンコを食わせて馬鹿にしたとしても、
昔やったことです。
それはそれ、これはこれで未来を見るための法律を、
僕はつくるべきだと考えます。

それで小山田の新曲がクソならクソだなあといえばいいだけのこと。
そしてまた小山田が障害者を差別したら、ふざけんなと怒ればいいだけのこと。
時効の過去は問わないことが大人のスタンスでしょう。
これからやることが問題かと。

五輪委員会は、
「小山田の過去にパラリンピック憲章に反する重大なことがあったが、それが事実であったとしても、
彼は今パラリンピック憲章に基づいて音楽をつくった。
過去を見るか今を見るかで、我々は今と未来を見た。
過去は過去で別に断罪するべきだが」
といえば、少なくともみっともない混乱や炎上はなかったでしょう。

そういえなかったということは、
小山田の芸術性についての議論が、
まったくなかった証拠と言わざるを得ない。

問題は、「許せないから殺せ」と感情論になることではないかと思います。



で、芸術ってなんだろう、
という視点がまるで世間に抜けていると思ったので、
そもそも芸術ってなんだっけ、
と考えるべきなんじゃない?と思いました。

祭りに芸術は不要と考えて、
「なんかいっちょ盛り上がる音楽かけてよ」
の要求レベルであれば、
和太鼓と北島三郎とかサザンでいいんじゃないでしょうか。

日本の音楽は素晴らしいと世界に向けて発信するほどの芸術性が、
小山田にあるから起用されたんでしょう?(反語)
Posted by おおおかとしひこ at 2021年07月21日 15:35
横から失礼します。

今回の件、大岡様がときどきおっしゃっているようなシナリオ的な意味を持ってしまっているような気がするのですが、そのあたりはどう思われますでしょうか?

すなわち、障害者に対するいじめを行った人を起用することが障害者に対するいじめを肯定する(あるいはそれを否定しない)意味合いを大衆が感じ取ってしまっている、というようなことについてです。
Posted by kokubunji at 2021年07月22日 15:58
>kokubunjiさん

そういう面はありますね。
「物語として理解しやすくなったとき、
世間に受け入れられる(反発も含めて)」
ということだと思います。
枝葉末節が仮にあっても、
「わかりやすい物語」に収斂しやすいというか。

以前にも書いたけど、大塚家具お家騒動は、
老舗頑固親父vs進歩的美人娘という、
物語的なものに収束してしまった感が強いですね。
あるいはBLM運動も、
殺された黒人が麻薬王だったこととかは、
あまり触れられていない部分かと。
なんだか善良な黒人が白人の警官に殺されたみたいになってるし。

そういう意味で、
陰謀論は、脚本家こそが得意な悪魔の所業だと思います。
ぜひそれに、もっと面白い物語で対抗したいものです。


それにしてもラーメンズの引き摺り下ろしはむごかった。
過去のネタの一文だけ引かれてもなあ。
「わかってないやつ」の例でホロコーストを出す、
ブラックジョークが許されない知性とは、
大衆の知性も落ちたものよのう。
(ユダヤサイドにちくった議員がいるそうですが)

アメリカンプロレスくらいがちょうどいいのかなあ。
Posted by おおおかとしひこ at 2021年07月22日 17:06
ついでに。
この暴徒ぶりは、蝗害のような感じを受けますね。

トビバッタは普段は大人しいのに、
ある条件が揃うと全てを食い尽くす状態に変異するという。
トビバッタは過密さが条件だそうです。
人類の場合は過密さと(今回のコロナ)ストレスに加えて、
最後のひと匙に物語があるのかもですね。
Posted by おおおかとしひこ at 2021年07月22日 17:10
ご回答ありがとうございます。

「物語として理解しやすくなったとき、
世間に受け入れられる(反発も含めて)」

はそうなのかもしれないと思いました。
もしくはわかりやすい物語としてしか理解できないと言うべきなのかなとも。
Posted by kokubunji at 2021年07月22日 19:12
>kokubunjiさん

偏見ですが、アメリカの弁護士は、
(ど素人の)陪審員たちにむけて、
複雑な問題をわかりやすいアングルに変換できるかどうか、
で戦っている気がします。(論点ずらしや虚偽も含めて)

ある種のジャーナリストにそういう人もいるでしょう。

そういった、「わかりやすい物語」こそに悪意が込められている、
というのが最近明らかになってきているような気がします。
複雑な問題を複雑なまま扱うIQの高い人を、
IQの低い人が雪崩を打って駆逐するように、
中途半端なIQのやつが暗躍している感じ。
(小山田は自業自得だけど)
Posted by おおおかとしひこ at 2021年07月22日 19:29
ぼくは表現として「いじめ自慢」も「ユダヤ人虐殺ギャグ」もあっていいと思ってるんですが。
元々、小山田も小林もカウンター・カルチャー的な意図もあってやってたことですよね?

小山田の暴行犯罪はとうてい容認できません。が、それと雑誌で「いじめ自慢」をして良識にカウンターをくらわせるというのは表現としてはありではないのかと。
同様にホロコーストをちゃかすというのも、表現としてはありではないかと思うんですが、ぼくの考えは極論なんでしょうか?

一番腹が立つのは小山田も小林もそうした過去のカウンター・カルチャー的行為を反省していることです。
現在の自分のみならず、過去のカウンター・カルチャー的表現行為全体に対して冒涜してますよ。

まあ彼らが「カウンター・カルチャー」なんていう肝の座った表現行為を自覚的にしていなかったというだけなんでしょうが。
たとえばこれが筒井康隆だったら絶対反省しないと思います。原爆投下を揶揄した「博士の異常な愛情」のキューブリックが果たして謝るか?

あと繰り返しになりますが、小山田の暴行犯罪自体は認められるべきではないとは思います。こちらは「表現」ではないので。
Posted by ふじ at 2021年07月24日 13:49
>ふじさん

カウンターカルチャーが機能する時って、
カルチャーが強固にあり、
それを相対化する時だと思うんですよね。
90年代はまだカルチャーがあり、
カウンターカルチャーとしてサブカルチャーがあった。
だからカウンターカルチャーとしての、
ロッキンオンやラーメンズは正しいと思います。
反抗こそロックなので。

問題は、そのサブカルがメインカルチャーになってしまったことでしょうか。
アキバはメジャーになるべきではなかった、
と誰もが考えていると思います。
じゃあメインカルチャーは今どうなってる?
壊滅寸前。
それをサブカルが順番に埋めている状態が、
現在ではないかなあと。
中核派を体制側が取り込んで崩壊したみたいな?

まあとかげの尻尾切り要員として、
外様の大将を立てる手は昔からのやり口ですね。
一番槍をやらせるというか。


そういった文脈を全部飛ばしてユダヤだからアウト、
という短絡がもっとも問題だと思っています。
これに関しては長い記事を書いたんだけど、
添削スペシャルはじめてしまったので、
公開はあとにすることにしました。
Posted by おおおかとしひこ at 2021年07月24日 14:04
>じゃあメインカルチャーは今どうなってる?
>壊滅寸前。
>それをサブカルが順番に埋めている状態が、
>現在ではないかなあと。
>中核派を体制側が取り込んで崩壊したみたいな?

なるほど。それが昨日の開会式のひどさ(とぼくは思いました)につながると。
おっしゃる事態が可視化された式だったなあ、と感じました。
色々なことが象徴されていた式だったと思いました。

おっしゃる通りだと思いますが、メインカルチャーの崩壊ってもう何十年前からいわれてますよね……。

記事楽しみにしています。いつもありがとうございます。
Posted by ふじ at 2021年07月24日 14:17
>ふじさん

それを確認するために開会式見なきゃとは思ってるけど、
何時間もあるらしくて、たぶんYouTubeにあるだろうから、
探さなきゃ…
Posted by おおおかとしひこ at 2021年07月24日 15:00
ここで見れますね。

https://sports.nhk.or.jp/olympic/highlights/content/1feb8382-e3e5-4498-9bac-e250086c102e/

真ん中の入場行進シーンが長すぎるので、そこを適当にショートカットして、前後のショーをご覧になれば内容が把握できるかと思います。
Posted by ふじ at 2021年07月24日 18:33
>ふじさん

ありがとうございます。ダイジェストはYouTubeにありましたが、
本編4時間ごえってどういうことよ……
映画ですらそんな面白いショーは無理だろ……
Posted by おおおかとしひこ at 2021年07月24日 18:45
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