子供の頃図書館に連れてってもらったなあ。
本の迷路の記憶は、いつもそれを思い出す。
思えば僕は本好きになる素養はいくらでもあるんだけど、
本嫌いなんだよね。
でも漫画や映画は大好きだ。
なんでかを考えると、やっぱり最初の図書館が嫌いだったから。
「ジャンル分けがわからない」に尽きる。
僕が好きなのは、
物語というジャンルで、
評論やエッセイや学術書や辞書ではないらしい、
とわかったのは小学校高学年かなあ。
もっとあとかも知れない。
だって、
あるものを他と区別するには、
あるものと他の両方を知らないとわからないからね。
物語というジャンルがわかるには、
評論やエッセイや学術書や辞書がわからないと、
わからないと僕は思った。
そもそも、
全体でどんな体系になってるのか分からないから、
部分で見ても分からない。
これは、全体を整理する者の仕事がぬるいからだ、
と大人になってはじめてわかった。
「全体を整理する」仕事は、
全体をひととおり分かってないと出来ないから、
「全体を分かってない人が初見で見てわかるもの」を考えられず、
「全体を分かってる人がわかるもの」をやりがちだ。
だからいつまでたっても、
全体を分からない人は全体を俯瞰できない。
そうじゃない。
全体を分かってる人は、地べたを這って整理したのだから、
それを地べたを這ってない人にも分かるようにするべきなのだ。
僕は10もジャンル分けをするべきじゃないと思う。
1: 物語 架空の世界の架空の出来事
2: 評論 本当の世界についての考察
3: 学術書 本当の世界について科学的にわかっていること
4: 辞書 言葉や事物についてまとめたもの
5: その他
くらいの、片手で把握できる分類と説明でなければ、
「初見の人にジャンル分けがわかる」
とは言えないと思う。
僕はこれが分からず、初手で本の迷路で迷子になり、
まだ怖くて森に入れない。
小説のジャンルもわからない。
まず国内作家と海外作家で別れてるのもよく分からない。
すぐれた物語に国内と海外の区別などないだろ、
と子供の頃に思ったからだ。
僕はすぐれた物語が見たいのであり、
それが日本人によって書かれたものだろうが、
外人に書かれたものだろうがどっちでもよくて、
自分の読みたいものがどっちにあるかなんて分からないじゃないか、
といつも思っている。
TSUTAYAもそうだよね。
まだ見た目が日本と外国なんて分かりやすくビジュアルが違うから納得するけど。
韓国は「アジア」という新ジャンルが出来たから納得するが、
最近元気がない香港はどこの棚に行けばいいんだろ。
TSUTAYAの、
ドラマ、コメディ、ラブストーリー、アクション、SF、ミステリー
というジャンル分けはかなりありがたい。
これくらいでいいと思うんだよね、ジャンル分け。
あとは棚を見て面白そうな背表紙を見つければいい、
というTSUTAYAの仕組みはすごく好き。
僕の最初に行った図書館はそうじゃなかった。
日本の作家と外国の作家にわかれて、
あとは作家名の五十音順に並んでただけ。
点で探しやすいのかも知れないが、
その前でうろついて楽しそうとは思えない。
僕は、その初手で本嫌いになった。
「分かってる人のための仕組みで、
僕のような分かってない人を排除する」
と感じたからだ。
以来そうなりたくないと思って、
なるべく初手でわかりやすいことを心がけている。
(機嫌が悪い時はできてない)
さらに進むと、
TSUTAYAのジャンル分けでも済まないんだなあと分かってくる。
見た目の細部化ではないぞ、
ということが分かってくるわけだ。
どんでん返しものとか、
伏線の回収が見事なやつとか、
泣けるやつとか、感動するやつとか、皮肉なやつとか、
ストーリーの構造や態度によっても、
ストーリーはジャンル分けできることに気づく。
ロボットが出てきても、
刑事が出てきても、
男女の愛でも、どんでん返しはできるわけだ。
じゃあ見た目×構造でジャンル分けすればいい?
それは複雑になりすぎる。
初心者おいてけぼりだよね。
ブレイクシュナイダーは、
「save the cat」内で、
プロットのジャンル分けを試みている。
主人公の立場や目的や旅の形など、
プロット構造そのものに立ち入ったジャンル分けで、
勉強するものにとってこれ以上有益な情報はない。
「このタイプの物語は他に何があるのか?」
という横断的な渡りかたができるからだ。
だけど物語の型というのは日々発展する。
古典にないものを作ろうというのが、
創作というものだ。
だから「執筆時点での整理」に過ぎず、
その分類は徐々に古びていく。
(たとえば「進撃の巨人」はその10のジャンルに入っていない)
あるいは、アメリカの物語のジャンル分けを元にしてるから、
日本のジャンル分けと違和感がある。
そこが文化の差の議論の面白いところでもあるのだが、
双方に詳しくないので立ち入らないことにしている。
これらのことを鑑みれば、
「ジャンル分けの確立はないのだ、
誰かが責任をもった分かりやすいジャンル分けをする」
ことでしかないのだ。
で、件の図書館は、
「責任を放棄しました。
誰からも刺されない『ただしさ』で問題ないでしょ?」
という、責任者の怯えを感じたのだ。
だから僕は本嫌いになった。
怯えてる本なんて詰まらない。
学級文庫と称して、
教室の後ろにあったSFや少年向け江戸川乱歩ものは、
大体読破したと思う。
あれは表紙がよかった。
「おもしろいぞ!」って全力で言ってたもの。
あるいは、
「このおもしろさがわかるかな?」って誘ってたもの。
本とのつきあいって、人付き合いと同じだと思う。
「責任は取りません、間違ってないから問題ないでしょ?」
というよりも、
「おもしろいぜ!」
という方を好きになるに決まってるよね。
小説を書くようになって、
本屋で本の表紙ばかり眺めていた時期があった。
あんまり「おもしろいぜ!」っていうものがないんだよね。
AVのほうが「エロいよ!」って訴える力が表紙にある。
小説ってかしこまり過ぎてると思う。
小説を読んでる賢い私のためのアイテムに成り下がってる。
もっと猥雑でいいと思うんだ。
YouTubeのサムネに負けてるよね。
最近の映画のポスターはただのブロッコリーで、
小説の表紙とどっこいじゃない?
(映画「いけちゃんとぼく」の表紙は間違ってると思うし、
ドラマ「風魔の小次郎」の表紙は予算がなくてブロッコリーしか出来なかった)
つまり今一番いい表紙やジャンル分けは、
AVとYouTubeだね。
それに対して、はじめての図書館が悪過ぎた人生だった。
ジャンル分けと表紙は、
作者だけではどうしようもない部分だったりする。
物語が好きな人は、
こうしたことにも注力してほしいと思う。
入り口の前で引き返す人を、なんとかしたい。
中に入ってダメだったならいいんだけどね。
2021年07月20日
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