2021年07月22日

〇〇のないものはストーリーではない

これを考えることで、
何がストーリーに本質的に必要なのかを考えることができる。

僕の説だが、
事件、解決、感情移入、緊張、元に戻ること、満足
の6要素ではないかと思った。


【事件のないものはストーリーではない】

日常系はストーリーではない。
何かしら事件が起きないものはストーリーではない。
日常ではそんなに事件が起きないが、
ストーリーでは事件が起きる。
それは、
ストーリーとは、
「日常と違う、特別な何かについて描いたものだから」だ。
勿論、事件の起きていない日常の価値を描くことも芸術のひとつではあるが、
それはストーリー芸術では扱いの範疇外だ。
もしストーリーが日常のすばらしさを描くならば、
非日常の状態で、「あの日常にもどりたい」というような、
背理法で描くだろう。

ストーリーで事件が起こるのは、
何か特別なことがあるから、ではない。
その事件の発生から解決までが、
ストーリーだと言えると僕は思う。
その主線以外の線は、ストーリーでないとすら考えている。

事件の起こらないストーリーが存在するか、
でいうか、存在するが、面白くない、
というのが結論だと思う。
今日はいつもの日常とは違う特別な事件が起き、
それを解決するべく追いかけるストーリーのパターンは、
その他のパターンに比べて圧倒的に面白い。
逆に、それ以外でこのパターンより面白くなっているものがあったら、
反例として教えてほしい。


【解決のないものはストーリーではない】

事件が起きてから、解決するまでの時間軸がストーリーである。
ストーリーは絵より音楽に近い芸術だ。
静止した絵はストーリーではなく、
たとえ絵がなくても音が連続しているものがストーリーである。
(ラジオドラマはストーリーだが、
ポスターや油絵はストーリーではない。
ストーリーっぽい何かではある)

事件の発生ではじまったストーリーは、
どのように終わるかである。
解決する場合としない場合があるだろう。
する場合をハッピーエンド、しない場合をバッドエンドという。
僕はストーリーはハッピーエンドで終わるべきだと考えている。
長編を描く場合、
解決までに付き合ってきた時間が、
何の意味もなかったバッドエンドになることほど、
つまらない結末はない。
(「マルホランドドライブ」「ゾディアック」を見てみたまえ)
短編ならば、バッドエンドはちょうどいい場合もある。
「笑ゥせえるすまん」「世にも奇妙な物語」などはそういうパターンもある。
そのほうが怖いからだ。
怪談と関係がある。
恐怖はわからないことと関係する。
あれは何だったのか、なぜそれがうまく行かなかったのか、
などが分からないと人は恐怖する。
怪談はそれを利用して、
怖いものをつくる。
逆に、理解は快感である。
我々は、
長編を見るときに、
起こった事件が解決するさまを見て、
ある種の理解をする。
これはこういうことだったのか、
これはこうしたら解決できるのか、
再発を防ぐにはこうするべきだなあ、などだ。
その「理解」が落ちだ。
解決しないものは理解がない。
理解がないから怖いだけだ。
ストーリーの役目は、
理解できず怖さの中に放り出すことではなく、
理解できるものに落とし込んで、安心することだと思う。


【感情移入のないものはストーリーではない】

感情移入がないと、
事件から解決までの一連の時間は、
入れ込むほどの価値がない。
どんなに価値があることを語っていたとしても、
心には響かない。
ただの報告書でしかない。
ただの報告書が急に「まるで自分に起きたかのようだ」
と思い、ストーリーをわが物とするには、
感情移入が不可欠である。

感情移入がどのようにして起こるかは、
過去記事に詳しいので振り返らない。
「自分に似たものに起こるのが感情移入はなく、
自分と遠いものに起こすのが感情移入のコツ」
であることは書いておこう。
感情移入はちまたによく見る共感ではなく、
物語にだけある特別な感情だ。

【緊張のないものはストーリーではない】

事件が起きたとしても、
そこに緊張がなければ解決するまでもない。
宇宙人が攻めてきたが、
どうにかしないと人類が滅亡するから、
人類は戦うわけである。
宇宙人が攻めてきたが、こちらになんの危険も及ぼさず、不干渉を貫き、しかも別に迷惑をかけていない、
というならば、ストーリーにはならない。
その事件が、危険であったり、
色々な緊張をもたらすから、
解決の必要があるわけだ。
ストーリーでは、つねに問題は火急である。
火急だからこそ、
ストーリーが起こるのだ。


【元に戻ることはストーリーではない】

時間軸とは何か。
元に戻るものは時間軸ではない。
元に戻らない、永遠の変化こそが時間の本質である。

喧嘩していた二人が和解するとき、
喧嘩する以前よりも仲が良くなって、
はじめてストーリーになる。
喧嘩していたが、次の日、
まるで喧嘩していなかったように元に戻るのは、
ストーリーではない。(むしろ異常事件かもだが)

ストーリーでなぜよく人が死ぬのか。
元に戻らない強い制限をかけるためである。
元に戻らないから、緊張があるわけだ。
元に戻らないものを、
以前以上に良くしようとするから、
解決に価値があるわけである。

ポスターはストーリーではない理由がこれだ。
ポスターの中では時間が進んでいない。
元に戻らないものはない。

だから、
全員集合している絵はストーリーではない。
それはある時点での状態に過ぎない。
その状態が元に戻らなくなること、
つまり誰かが死ぬとか、
付き合っていた誰かが別れるとか、
地球がなくなるとか、
そうしたものがストーリーだ。
元に戻る安心感はストーリーではない。
それは緊張がない。
元に戻れないかもしれない、
失敗したら誰か死ぬ、それがストーリーだ。


【満足のないものはストーリーではない】

なぜ我々はストーリーを見ると満足するのか。
感情移入している登場人物たちの、
緊張のある事件から解決までを見て、
決して元には戻らないが、
元に戻る以上の解決を見たことで、
我々はそこに意味を見出す。
その意味こそが満足になる。
「なるほど、この事件と解決は、
俯瞰するとこのような意味があるぞ」と、
我々は理解する能力をもっている。

逆に、「なんの意味もなかった」はストーリーとしては不足である。
満足しないからだ。
「色々面白いショウを見てきたが、
全体で見ると、ただの時間つぶしでしかなかったなあ」
では満足はしない。
その満足こそ、
「これまで見てきた数時間は、
このような意味をいうためにあったのだな」となる。
つまり、時間軸が意味という一点に圧縮される。
これをテーマという。

満足は、
テーマの自然な導出があり、
これまで見てきた、事件から始まって解決で終わる、
一連の時間軸が、
それでまとまったときに、
発生する。

面白いアクションを見たとか、
興奮したとか、
美しい美女やイケメンの顔を見たとかは、
一部の満足であり、
全体の満足ではない。
(逆に、よい全体の満足を一度味わったら、
一部の満足しか提供していない、と不満に思う)

ほんとうの満足は、
全体がまとまるときの満足だ。


ストーリーに必要なものは、
登場人物や設定や演出や名台詞や、
三幕構成などと初心者は思うものだ。
しかし絶対的にないとストーリーとは言えないものがある。
それらを抽出してみた。
自分のシナリオに足りないリストをつくるとき、
参考にされたい。
posted by おおおかとしひこ at 02:15| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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