2021年08月03日

すべての表現はものまねである

ものまね芸人は実に面白い。
特徴の抽出と、それを使って笑いに昇華したり、
芸として昇華することがだ。

すべての表現は、
どちらにせよものまねであると僕は考えている。


なぜなら、
それは架空のものだからだ。

あなたの本心の表明と、表現は関係がない。
いかに心を籠めようが、適当に嘘をつこうが、
架空の面白さには関係がない。
面白いことがすべてなのが、架空の表現である。

医者の話を書くときに、
あなたは医者でないからといって書く資格がないわけではない。

もちろん想像上の医者ではなく、
ある程度の取材や裏付けはしたほうがいい。
なぜなら、
「医者っぽいこと」がないと医者の話にはならないからだ。


医者っぽいとは、
医者の恰好をしていたり、
専門知識があればいいというわけではない。

命のことについてどう考えているかとか、
(単に大事なことと思っていてもいいし、
どうでもよいと思っていてもよい。
それは個々の考えだろう。
ただし、医者になって、命についての態度を、
一度たりとも考えたことがない、
ということはないだろう)

交友関係で医者はどう扱われるかわかっているとか、
世間のニュースを医者目線でみてしまうとか、
そうした、
「その人がほんとうにいる感じ」が重要だ。

俳優という職業の話ならば、
しぐさや動作の完コピは最低限で、
「人間がどういう動機で動いているか」に観察眼があったり、
売れない俳優のことをどう考えているか、
という哲学があったり、
「それを長くやっている人ならではの、想像もつかない何か」
こそが、
架空のものをほんとうらしくするコツだと思う。


それはつまり、
表面に現れている以上の何かを知ることで、
そのものまねをしようということだ。

ただの形態模写ではない。
ものまねは、
「その人の本当らしさを強調して、
その人の本当っぽいものに仕立て上げる」ことである。

ときに極端にデフォルメしたり、
嘘をついてまでそうすることがある。
コロッケみたいな極端なギャグにしてもよいし、
もっとリアリティのあるものまねにしてもよい。
それは、作家や作品によって異なるレイヤーだと思う。


ただ形態模写だけするのはものまねではない。
何がそれをそれらしく見せているのか、
それは他と何がちがうのか、
そこには表れていないが、
実際のところはどういう流れでいるのだろう、
などを問うことで、
それの本当らしさが炙り出されることがある。
ものまね芸人はそこまで調査して、
それをフィルターで濾して、
最終的な表現まで持ってきている。

脚本が、そうなっていないわけがない。


医者と弁護士の話を書くのに、
現場の取材をするだけで十分とは思えない。
たとえば、
「キャバクラに来た医者と弁護士」
「餅つきをする医者と弁護士」
のシーンを書けるか、ということだ。

その人らしさは、
その人らしいところではなく、
違うところで異物として現れる可能性のほうが高いと思う。

ものまねは、
だからか、「そのキャラクターが突飛な場所にいたら」
というネタがあったりする。
フィクションの脚本も、そういうことのような気がする。
posted by おおおかとしひこ at 00:11| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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