ものまね芸人は実に面白い。
特徴の抽出と、それを使って笑いに昇華したり、
芸として昇華することがだ。
すべての表現は、
どちらにせよものまねであると僕は考えている。
なぜなら、
それは架空のものだからだ。
あなたの本心の表明と、表現は関係がない。
いかに心を籠めようが、適当に嘘をつこうが、
架空の面白さには関係がない。
面白いことがすべてなのが、架空の表現である。
医者の話を書くときに、
あなたは医者でないからといって書く資格がないわけではない。
もちろん想像上の医者ではなく、
ある程度の取材や裏付けはしたほうがいい。
なぜなら、
「医者っぽいこと」がないと医者の話にはならないからだ。
医者っぽいとは、
医者の恰好をしていたり、
専門知識があればいいというわけではない。
命のことについてどう考えているかとか、
(単に大事なことと思っていてもいいし、
どうでもよいと思っていてもよい。
それは個々の考えだろう。
ただし、医者になって、命についての態度を、
一度たりとも考えたことがない、
ということはないだろう)
交友関係で医者はどう扱われるかわかっているとか、
世間のニュースを医者目線でみてしまうとか、
そうした、
「その人がほんとうにいる感じ」が重要だ。
俳優という職業の話ならば、
しぐさや動作の完コピは最低限で、
「人間がどういう動機で動いているか」に観察眼があったり、
売れない俳優のことをどう考えているか、
という哲学があったり、
「それを長くやっている人ならではの、想像もつかない何か」
こそが、
架空のものをほんとうらしくするコツだと思う。
それはつまり、
表面に現れている以上の何かを知ることで、
そのものまねをしようということだ。
ただの形態模写ではない。
ものまねは、
「その人の本当らしさを強調して、
その人の本当っぽいものに仕立て上げる」ことである。
ときに極端にデフォルメしたり、
嘘をついてまでそうすることがある。
コロッケみたいな極端なギャグにしてもよいし、
もっとリアリティのあるものまねにしてもよい。
それは、作家や作品によって異なるレイヤーだと思う。
ただ形態模写だけするのはものまねではない。
何がそれをそれらしく見せているのか、
それは他と何がちがうのか、
そこには表れていないが、
実際のところはどういう流れでいるのだろう、
などを問うことで、
それの本当らしさが炙り出されることがある。
ものまね芸人はそこまで調査して、
それをフィルターで濾して、
最終的な表現まで持ってきている。
脚本が、そうなっていないわけがない。
医者と弁護士の話を書くのに、
現場の取材をするだけで十分とは思えない。
たとえば、
「キャバクラに来た医者と弁護士」
「餅つきをする医者と弁護士」
のシーンを書けるか、ということだ。
その人らしさは、
その人らしいところではなく、
違うところで異物として現れる可能性のほうが高いと思う。
ものまねは、
だからか、「そのキャラクターが突飛な場所にいたら」
というネタがあったりする。
フィクションの脚本も、そういうことのような気がする。
2021年08月03日
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