人は異なる。
頭では分っているが、思いもよらない「違い」がわかることがある。
以下のことが大変面白い。
https://mobile.twitter.com/aloha_koh/status/1418057682397777922
7+8=15を理解するのに、
何も考えず反射で15、
5+5+2+3=15、
8+2+5=15、
7+7+1=15
と、4通りのやり方があることを、
たかだか家族の集合でわかったというのが興味深い。
たかが四則演算で、これだけやり方が違うのだ。
興味深いのは、
「自分以外にこんなにやり方があることを、
ほとんどの人は気づいていない」ことだ。
だから、「へえ、違うんだね。発見だ」でもいいし、
「計算ごときでこんなに違うのだから、
他に違う点がありえる」でもいいし、
「他に違う点がたくさんあるのに、
我々は自分の偏見で違っていないと思い込んでいる可能性がある」
と感想を述べてもよい。
で、違うことが分かったとしても、
この問題はもっと複雑に存在するものの、
トイプロブレムにすぎない。
たとえば、ABCDの4通りのやり方があるとして、
Aだけが突出して多かったらどうか?
「多数がやっていることが正しい」のか?
「多数が正しいとして、少数は間違っていて、
強制的にAに合わせるべきだ」なのか?
「少数はそのままでいいが、迷惑をこうむるのは勝手にしてね。だって少数派でしょ?」
は正しいか?
仮にAが、計算せずに反射で出るやり方だとしよう。
これはあきらかに計算をしないで済む、
もっとも早い方法だが、
運用コストが低く済むから合理的か?
これを習得するコストは一番高い。
そんなに計算しない人が、
そこまでコストをかけて学ぶことか?
あるいは、この程度のことは、
自動的に出来るように訓練しておくべきか?
これらの問いに、答えはまったくない。
何がただしいか、分らない。
分らないから、
「僕はこうなんだけど、君はどう?」と問い、
その都度、この程度をただしいと考えよう、
と、参加者の間で合意をつくっておくとあとが楽だ。
だが、そこにその合意を知らない、
もしくは反対している人が入ってきたらどうか?
また最初から議論しなければならない。
寛容や多様性は、このめんどくさいコストがかかる。
知らない違いがあることを知ることも、
コストがかかる。
だから、人は安易に不寛容に流れる。
あいつはあんなやつだからだめだ。
あいつは分かってない。
排斥せよ。クビだ。
役立たず。
なんでこれをこうするの?これはふつうこうでしょ。みんなそうやってるよ。
不寛容の先は、
「みなが同じになること」だろう。
もちろんそのほうが効率的で、合理的な動きが出来るかもしれない。
軍隊や、工場労働などは、
それらが前提で組み立てられている近代の理論だ。
まるで働きバチのように。
その近代に対して、
「人間はマシン(のように画一的なもの)ではない」
と言い続けてきたのが、
近代の文学や哲学であったと思う。
それに、
運用コストや初期コストを絡めて来たのが、
現代の合理性と多様性の難しさだ。
たとえばLGBTへの配慮はするべきだが、
それにはコストがかかる。
たとえば公衆便所は、何種類用意すればいいか?
そのコストは誰が払うのか?
そのために税金が増えることは、
誰がどの程度容認するべきか、
その答えは出ていない。
排斥するのは簡単だ。
不寛容で、多様性を認めないことは、気持ちいい。
「正義棒で人を殴る」と、
最近のツイッター炎上は揶揄されることが増えてきた。
「正義」に取り憑かれた人たちは、
一様に「我々は『同じ正義』である」ということに、
快感を覚えている可能性がある。
寛容で、多様性を認めるには、
「いろいろあるんだなあ」という余裕が必要だ。
孤独や追い詰められた人には、
その余裕はない。
だから、不寛容である人は、
余裕がない人が多い。
7+8=15を例にとって、
議論することはできる。
これは中学生や高校生のときに、
答えのない議論をさせるときに、
恰好の題材かもしれない。
社会がどうあるべきか、
まだ誰もわかっていない。
不寛容で、他と違う者を排斥するさまは、
サバクトビバッタに見える。
群生相に変異し、大規模な蝗害を起こすさまは、
ネットのヒステリックな炎上に似ていると思う。
知性のある人間のやることではないと思う。
必要なのは知性だ。
くさいものに蓋をすることではない。
2021年07月23日
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