富士山の侍.pdf
「キル」あらため、「富士山の侍」です。
最後まで読めばわかりますが、
富士山の侍とは、カゲロウだけでなく、
さくらをも示していることがわかります。
なので、タイトルを最後に出す演出にしてみました。
あんまり好きじゃないんですが、
(ドヤ、ドーンみたいで)
タイトルの回収を最後にやると、
なるほどね感がわかりやすいかと思われます。
わりと濃い話なのに、
実は15分ないんですよねこれ。
14分くらいか。
常識の15分なんてあてにならない、
ってことがよくわかります。
ていうか、そういうキレが短編の持ち味だと思います。
これが長編映画なら、
周囲の設定をいろいろ詰めて、
とかやっておかないといけないところですが、
そうするとスピード感が落ちますね。
親友のエピソードとか入れたくなってしまう。
それがないことで想像が広がるので、
どういう関係だったんだろう、と勝手な空白が生まれることになります。
カゲロウがどうやってこの年まで生きてきたのか、
などでもっと膨らませられそうでしたが、
一切そこも入れませんでした。
短編なりのスピード感のためですね。
タケルとさくらに恋の予感とかになりがちだな、
長編だと。
タケルがAIにこだわる理由とかも、長編でありそう。
そういうよけいな要素を入れていないのも、
短編のいいところだと思います。
完全にソリッドに、
カゲロウとさくらの話に集中できる感じになっています。
前の版ではイニシエーション的な説明役でしかなかった、
タケルをずっと登場させることで、
全体の聞き役にしてみました。
ある事実をしゃべるとき、
誰も聞いていない状況でしゃべるのは変なので、
「誰かに向かって真実を話す」という体裁をとって、
実は観客に情報を提示していることがあります。
それを聞き役といいます。
その事実を知らない人ならば誰でもいいですが、
入れ替わり立ち替わりするとめんどうなので、
タケルにその役を全部負わせています。
前の版ではカゲロウとさくらがメインでしたが、
この版では、さくらがかなりメインになってきましたね。
さくらが中心に、タケルとバディを組んでカゲロウを救う、
という構図になっていると思います。
これによって中盤が生きた感じになったかと思います。
ミステリーのジャンルですかね。謎解きというか。
「間違ったことをしたとしても、
次に間違わないことだ」
というのがテーマになったっぽいですかね。
ここまで明瞭に考えてはいなかったですが、
クライマックスでそれはあきらかになりました。
最初はカゲロウかさくらが、
「ミスをすることはある。でもそれがわかったら、繰り返さないことだ」
などと言うことで締めるのかなあ、
と予想して書き始めたのですが、
クライマックスを組んでいるうちに、
自然に行動で示すように描けました。
当初の構想では、
「門の侵入をやり直す」というのはなかったんです。
でも書いているうちに、
勝手にキャラクターが動き出して、
それを追いかけた感じです。
「もう一度やりなおすことが出来たら?」
というのは人生の大きなテーマのひとつで、
そこがうまくいくならば、
無念は成仏するだろうなあと思って。
(こういうのはタイピングで書いててはできないと思います。
漢字変換しているうちに、
アイデアや情熱やキャラクターの思いが蒸発していくので。
身体を使って書く、書くことがアクションになる、
手書きならではの書き方だと思います)
僕はこうしたアドリブでストーリーが転がることを、
期待しながら執筆することがよくあります。
その為にプロットやキャラクターを綿密に準備しておく感じですかね。
なぜそうするのか、
何をどうするのか、
そしてどうなったのか、
それはどういう意味があるのか、
などを詰めておきさえすれば、
「その範囲なら何をしてもいいぞ」
という自由を自分に与えるのです。
そうすると、勝手に名台詞を言い始めたりします。
ラストの、「私は、私の富士山を登らなくちゃ」
というのはプロットを考えていたときに、
「できた」とおもったセリフですが、
富士山へ向かう直前、
第二ターニングポイントの、
「今度は、間違えたくない」
は、自然に出てきた、短くて力強い台詞です。
これがテーマに繋がるわけですからね。
こういうのは計画からはなかなか出て来ません。
キャラクターの思いと作者のテンションが、
シンクロしたときにしか起こらない現象です。
我々は、そういう瞬間を意図的に起こすために、
準備する人間だともいえます。
あと、細かい解説を赤入れで説明しておきます。
次回。
2021年07月29日
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