「映画は見るだけの受動的メディアだが、
ゲームはインタラクティブだから、
能動的に楽しむのからいいのだ」
なんて議論がよくあった。今でもあるだろう。
それは全然違っていたことがわかってきたように思う。
この議論の前提がまず間違っていた。
「映画は受動的に見るもの」ではないのだ。
だめな映画は受動的に見るだけの素通りするものかもだが、
良い映画はそうではない。
「自分だったらこの状況でどうするか」
「あいつはこうやっているし、こういうことが現実ではあるものだから、
こうするとこの窮地を切り抜けられるのではないか」
などと、
能動的に見ている。
つまり、ある状況を、自分なりにシミュレートしながら、
頭の中で想像してオペレーションして、
主人公がすることと比較しながら見ている。
受動的に見ている人は、それをしていない。
だから爆発したりセックスしたりするだけで、
うわーとかうひゃーとか動物的反応をするだけなのだろう。
それは物語を見ているのではなく、
刺激を受けて反応しているだけである。
物語を見るという事は、
能動的に見ることだ。
頭の中に仮想空間をつくり、
状況を入れて、自分ならこうするだろうとシミュレーションすることが、
物語を見ることである。
目で見ているのはインプットにすぎず、
頭の中で想定したアウトプットと比較するためでしかない。
よい物語というのは、
ぎりぎり自分の想像を超えるよい解決がある。
物語の作者というのは、
観客を少しだけ上回るのが最上だ。
(上回りすぎると理解されない。下回ると俺のほうが面白いとなる)
つまり、物語を見ることは、
能動的参加である。
自分も解決チームの一員になったつもりで見ない物語は、
たいして面白くない物語だ。
一方、インタラクティブなゲームなどではどうか。
オープンワールドで一番問題になるのは、
「何をしていいかわからない」である。
世界に対して受動的にしかふるまえない人はとくにそうだろう。
能動的に世界に入り、自分で課題を見つけられる人は少ない。
その為、たいていは実行可能なぎりぎりの難易度のミッションを与え、
何をしたら間違いか、
何をしたら正解かを上手にチュートリアルしつつ、
上手に難易度を上げていくのが最上といわれている。
それって、結局よくできた物語と同じなのだ。
絶妙な難易度設定で、
失敗は失敗として描き、
成功は成功として描き、
ちょっとクリアしたらさらに難しい関門が待っていて、
どんどん難しく大規模になっていく。
自分でボタンを押すか、
頭の中の想像と比較するかの違いでしかなく、
「頭の中で想像して、それを実行する」
という点では、
ゲームでも物語でも同じだと僕は考えている。
逆によくないゲームは、
受動的である。
あれをやれ、これをやれ、と強制されて、
受動的にノルマをクリアするものである。
能動的に、こうだろう、ああだろう、と思って、
実行しては違うな、これか、となるわけではない。
つまり、
よいゲームもよい物語も、能動的に参加する。
よくないゲームもよくない物語も、受動的参加である。
映画は座っているだけでいいが、
ゲームはオペレーションを自分でしないといけないので、
よけいに面倒だろう。
まあ映画は配信やDVDなら途中で止めちゃうことも出来るが。
(映画館を途中で出る、ということは余程でないとやらないだろう。
僕はまだやったことがない)
良いゲームや、良い物語は、
どうやって能動的参加を得るのだろう?
良いゲームは、
世界観や操作感そのもので、誘引になることがある。
触って気持ちいいものだから、次もやる、
ということがあるものだ。
良い物語は、
感情移入というもので誘引する。
まずは変わったシチュエーションに引き込んで、
「私はこの人ではないが、
この人の立場になったら私もそうするだろう」
という行為をすることで、
どんどんと「あの人はまるで私のようだ」
と思わせることだ。
それがうまく行くと、
観客は主人公を先回りするようになる。
「たぶんこうなるだろう」
「私ならこうするが、彼はこうするだろうか」などのようにだ。
自分と主人公の間に、ある種の絆が生まれて、
チェイスするようになる。
こうなったときは、すでに受動的ではないわけだ。
能動的参加をしたくないものは、
逆に「おもしろくない」ものであるといえるかもしれない。
最初の議論に戻ると、
「映画は受動的だが、ゲームやインタラクティブは能動的だからおもしろい」
というのは、無知の暴論だったわけだ。
受動的なものが面白いわけないじゃんね。
能動的な面白さをどうやってつくればいいのか、
作者はつねに考えているわけだ。
それが出来ていない、
出来の悪い物語やゲームが、くそといわれるわけだ。
くその意味は、受動的、ということなのだ。
(以下のリンクはそれに関する海外の方による一考察です。)
https://youtu.be/hbzGO_Qonu0
映像作品の核が脚本であるならば、ゲームの核はプレイヤーの誘導技術でしょう。
同じ能動的参加でも、トリックは全く違ってそうですが、制作側だと共通点が見えて来るのでしょうか?
大岡先生には機会があればぜひ『Her Story』をプレイしてみて欲しいです。
ゲームにおける引き込みと集中の持続は、
報酬系を使っていると聞いたことがあります。
何かをすると何かを得られることを理解させて、
何かをさせ続けると。
猿に関する実験で、
ボタンを押したらバナナが出てくるマシンを与えても、
それほど中毒には至らないが、
ボタンを押したらランダムにバナナが出てくるマシンだと、
夢中になるというのがあります。
指先と報酬の関係を知りたくなるのでしょう。
なぜ実況がここまで流行るかというと、
ゲームが難しくなり過ぎたからだと思います。
それでいて最後まで見たいとか、
うまいプレイを見たいとかが動機でしょう。
つまり報酬系に失敗してると僕は思いますね。
よくできたゲームは、
「俺が一番これがうまいんじゃないか」
と勘違いさせる難易度に設定してあると思います。
ストーリーも同様に、
「俺がこの物語を一番理解している」
「俺がこの先を一番早く予想した」
と錯覚させる難易度設定がキモかもしれません。
昔オンラインRPGをしていたのですが、つくづく疑問な点がありました。
「やることがない」といいながら遊んでいる人が非常に多かったのです。
その人らはゲーム側が用意したイベントやクエストをクリアするのは非常に速かったのですが、一通りクリアしたら「やることがない」と単にログインしてチャットするだけでした。
僕がやっていたゲームはウルティマオンラインという非常に自由度が高いゲームで、やろうと思えば自分で鬼ごっこやかくれんぼといったイベントを企画したりすれば、それこそ何でもできる程度の自由さはありました。
しかし、それをやっている人はごく少数で、ほとんどの友人がクエストをクリアしただけで「やることがない」状態でした。
でも、今ならわかる気がします。
縛りプレイとかイベントを企画する人間って、実はかなり少ない人数しかいなかったから、「やることがない」というのが普通なのだと。
そしてそういう人が多いということは、ゲームにしろ映画にしろ作るときに頭の入れておく必要があると思いました。
物語に限っていうと、
「最初は受動的に見ていたんだけど、
最終的には能動的に見てるもの」
になるのがベストでしょう。
また、「なんでもいいからやってみろよ」
で何かをする人は殆どいないから、
「○○という目的の矢」を与えると、
誰でもそれに注目するようになりますね。
視線誘導みたいなことです。
ゲームでもお使いイベントや突発的な狩りイベントなど、
定期的に発生させることで矢をつくってます。
トーナメントを開催すれば大体どんなものでも面白くなるのは、
こうした目的の矢を明確に発生でき、ルールがわかりやすいからでしょう。