知っていれば冒険しないようなことがある。
逆に、冒険とは、知らないときにすることだ。
今面白い物語が生まれにくいのは、
「調べれば分ってしまう」世界のせいかもしれない。
Googleは、世界をすべてアーカイブ化しようとしている。
それは集合知として良いかもしれないが、
世界から冒険を奪ったともいえる。
結果が分っていることは何も命をかけて調べようとしないし、
調べれば危ないことには、人は手を出さなくなる。
そして、「事前にわかるものだけをやっていく」世界になってしまう。
「事前に分らないことは、怖くてできない」という風にだ。
これが、世界から冒険を減らした。
もちろん、冒険しなくなったことで、
死ぬリスクは減ったかもしれない。
大損するリスクも減っただろう。
だが、それと物語は相性が悪い。
物語とは、冒険だからである。
結果が分っていることに人は挑戦しない。
悪い結果が分っていれば避ける。
だから、物語からどんどん冒険が減ってゆく。
Googleがなかったころは、
調べることが困難であったから、
わからなくてもいい、やるしかねえ、
という冒険がたくさんあっただろう。
死んだ人がたくさんいただろうが、
冒険を成功させた人もいただろう。
それがリアルな世界の基準ならば、
映画の中もそうなる。
人は冒険することで成功を手に入れる世界観になる。
今は多少調べれば、
ほとんどのことは分ってしまう。
だから、物語は、
「調べても分らない世界」を対象にしない限り、
冒険を描けなくなってしまった。
これは、書き手のハードルが上がったことを意味する。
リアリティがありつつ、しかも冒険が成功することを、
構築しないといけなくなったからだ。
冒険がリアルでなくなったからといって、
物語から冒険がなくなることはない。
なぜなら、
冒険のドキドキこそが、物語だからだ。
逆にいうと、
物語とは、
「人生でドキドキせざるを得ない、
冒険しなければならない瞬間を描いたもの」
と定義できる。
物語におけるドキドキとは、
爆発でもアクションでもロマンスでもなく、
冒険そのものだ。
(冒険の途中で爆発やアクションやロマンスがあるだけだ。
それらは個別と全体の関係だろう)
冒険には、知識があるべきではない。
無知なジャンルでしか、
冒険できない。
物語になる瞬間とは、
「今まで誰も挑戦しなかった、
知識や経験値がない分野」
になるわけだ。
それをリアリティあるように着地させることが、
この時代に書き手に求められていることだ。
結構むずいね。
世界はネットワークで結ばれてしまった。
冒険は、そのネットワークの外で行う。
無知の、知らない世界で、
情報を集めながら、
しかし全体は一切把握しきれない、
未知数ばかりの世界で、
成功しなければならない。
そうしたことを書こう。
我々が知ってることを知らない無知は、
ただのバカあつかいだ。
作者の勉強不足で主人公たちがバカになるのはだめだ。
勉強しようと思っても調べられない、
無知というより未知のジャンルにこそ、
冒険はあると思う。
「ここまでは既知だが、
ここからは未知である」
をうまく探せたとき、
冒険を書くチャンスがある、
つまり、物語を書くチャンスがある。
2021年08月10日
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