2021年08月10日

冒険と無知

知っていれば冒険しないようなことがある。
逆に、冒険とは、知らないときにすることだ。
今面白い物語が生まれにくいのは、
「調べれば分ってしまう」世界のせいかもしれない。


Googleは、世界をすべてアーカイブ化しようとしている。
それは集合知として良いかもしれないが、
世界から冒険を奪ったともいえる。
結果が分っていることは何も命をかけて調べようとしないし、
調べれば危ないことには、人は手を出さなくなる。
そして、「事前にわかるものだけをやっていく」世界になってしまう。
「事前に分らないことは、怖くてできない」という風にだ。

これが、世界から冒険を減らした。

もちろん、冒険しなくなったことで、
死ぬリスクは減ったかもしれない。
大損するリスクも減っただろう。

だが、それと物語は相性が悪い。
物語とは、冒険だからである。

結果が分っていることに人は挑戦しない。
悪い結果が分っていれば避ける。
だから、物語からどんどん冒険が減ってゆく。

Googleがなかったころは、
調べることが困難であったから、
わからなくてもいい、やるしかねえ、
という冒険がたくさんあっただろう。

死んだ人がたくさんいただろうが、
冒険を成功させた人もいただろう。

それがリアルな世界の基準ならば、
映画の中もそうなる。
人は冒険することで成功を手に入れる世界観になる。


今は多少調べれば、
ほとんどのことは分ってしまう。
だから、物語は、
「調べても分らない世界」を対象にしない限り、
冒険を描けなくなってしまった。

これは、書き手のハードルが上がったことを意味する。
リアリティがありつつ、しかも冒険が成功することを、
構築しないといけなくなったからだ。

冒険がリアルでなくなったからといって、
物語から冒険がなくなることはない。
なぜなら、
冒険のドキドキこそが、物語だからだ。
逆にいうと、
物語とは、
「人生でドキドキせざるを得ない、
冒険しなければならない瞬間を描いたもの」
と定義できる。

物語におけるドキドキとは、
爆発でもアクションでもロマンスでもなく、
冒険そのものだ。
(冒険の途中で爆発やアクションやロマンスがあるだけだ。
それらは個別と全体の関係だろう)

冒険には、知識があるべきではない。
無知なジャンルでしか、
冒険できない。

物語になる瞬間とは、
「今まで誰も挑戦しなかった、
知識や経験値がない分野」
になるわけだ。

それをリアリティあるように着地させることが、
この時代に書き手に求められていることだ。
結構むずいね。

世界はネットワークで結ばれてしまった。
冒険は、そのネットワークの外で行う。


無知の、知らない世界で、
情報を集めながら、
しかし全体は一切把握しきれない、
未知数ばかりの世界で、
成功しなければならない。

そうしたことを書こう。

我々が知ってることを知らない無知は、
ただのバカあつかいだ。
作者の勉強不足で主人公たちがバカになるのはだめだ。
勉強しようと思っても調べられない、
無知というより未知のジャンルにこそ、
冒険はあると思う。

「ここまでは既知だが、
ここからは未知である」
をうまく探せたとき、
冒険を書くチャンスがある、
つまり、物語を書くチャンスがある。
posted by おおおかとしひこ at 00:13| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。