2021年08月01日

脚本とは、満足感のことである

脚本添削スペシャルを終えてみて、
間違いなくリライト版のほうが面白いとは思ったが、
この「面白さ」は、
製作委員会を通らない面白さだと思った。

そこが現在の映画の問題点に思う。


オリジナル版、リライト版、
ともに、

「AR侍が出てくる」
「元カウンセラーがいどむ」
「お蔵入りになった映画のキャラ」
「実は侍は狂っていた。そのためにカウンセラーが必要だったのだ」

という、企画書上はまったく同じものである。

リライト版にしかない面白さ、
「テンポよくセットアップがなされる」
「さくらのトラウマの克服こそが真のメイン軸」
「侍のクライマックスは、『人生のやり直し』で、
そこがさくらの人生とクロスする」
「ラストの満足感」

などという部分は、
企画書では書けない面白さであり、
脚本でしか味わえない醍醐味だ。


僕は「製作委員会は脚本を読めない」
と考えている。
もちろん読める人もいるだろうが、
読めない人の方が多いという前提で書いている。

「読める」とは、
「こういうストーリーだと把握する」だけでは足りなく、
「第一ターニングポイントが弱くて、
これって巻き込まれ型じゃないですか?」
と欠点を指摘する程度まで含む。

その意味では読めてないと思う。
だから、
「脚本を読んだだけではなんとなく納得が薄いけど、
それは私の読解力が足りないからかもしれない。
だってみんな良いっていってるし。
でもこれにベットしようかな、どうしようかな」
の背中を押すのは、
人気原作、人気俳優、人気監督などの、
わかりやすい「保証」なのだろう。

つまり脚本は、わかりやすい保証になり得ていない。


逆に言えば、
企画書栄えするものだけもってきて、
詰まらない脚本で、
人気○○を集めさえすれば、
脚本は通り、実制作にうつれるわけだ。

そして大方の予想通り、
そのプロジェクトは爆死する。

大型プロジェクトほどそうなのは、
ここ10年ずっと同じ失敗を続けているのを見ればわかる。


もうそろそろ、
脚本で満足したことのある客が、
映画館にいなくなるかもしれない。

面白い脚本を知ってる客はネトフリへ流れ、
脚本の面白さを知らず、
芸能人のファンがお披露目を見るためだけにいくハコになる。

それは、映画の衰退だと僕は思う。


だからこうして、「面白い脚本の見方」
を懸命に提供してるのだ。


まったく脚本を書いたことがない人にむけて、
ほんとうは書きたい。
しかしそこまで僕は経験を積んでないから、
今のところ書いてる人向けに書いている。

いつか、
脚本の読めない人にむけた、
脚本の読み方をレクチャーできるようになりたいものだ。



で。


製作委員会を通らなければ、
実質映画はつくれない。
お金が足りないからね。

プロデューサーは、その関門の通過だけを考えて企画書を書き、
あとは脚本家と監督に、実質丸投げする。
(もちろん志あるプロデューサーもいると思うけど、
どっちが楽なプロデュースか考えればわかる。
プロデューサーに面白さの責任はなく、
監督におっかぶせられれば、
トカゲの尻尾切りでプロデューサーは生き残れる)

惨憺たる現場を渡された脚本家と監督は、
しんがりを受け持つことになる。
そしてそれはほとんど撤退戦で、
どれだけ損しないか、
でしかない。


我々観客の真の満足は、
AR侍のCGの出来でもなく、
富士山が美しく撮れてるかでもなく、
ゴーグルのデザインが未来的かどうかでもなく、
誰がさくらやカゲロウ役をするかでもなく、
「トラウマに向き合う勇気と、
うまく解決したこと」にある。

これこそが、映画にしかできない満足だ。

だが、
現状は「この満足かどうか」は問われていない。




早々に結論を出すと、
現状の脚本家の仕事は、
渡されたガワに、
満足いく脚本を提出することだ。

そのガワを「裏貼りする」などと僕はいう。
中身を総とっかえしてでも、
ガワをそのままにして入れ替えてしまう。

そうしないと、満足する脚本を書くのが難しいくらい、
企画書のガワが「満足を捉えていない」ことが多い。


僕はこの現状が間違っていると考える。

これじゃ後出しの満足しかなくて、
状況のおっかけにすぎず、
ほんとうの満足を一からつくることが出来ないからだ。

理想は、
満足する脚本がすでにあり、
そこに「売れる」ガワを乗せていくことだ。

たとえば「富士山の侍」の話は、
ARでなくて、幽霊が誰かに憑依した話でも成立する。

その幽霊が実在の侍かと思ったら、
実は映画の中の侍であった、
(たとえば俳優が自殺したでもいいかもね)
という設定でだって、
ほとんど同じことができるだろう。

それを、「これARにしないか? そのほうがウケるぞ。
お金も持って来れそう」
とガワを上手に足していくことが、
プロデューサーの仕事だと僕は思っている。

だがそこまでの目利きは滅多にいないから、
我々はガワと中身を同時に考えるしかないわけだ。


だから結果、
脚本家の負担だけが増えているように思う。



嘆いてもしょうがない。
現実はタフだ。

乗り越えるしかない。

そのためには、
そもそも満足できる脚本を書けなければならない。

どんな土俵が来ても、
満足できる取り組みを創作できるか、だ。
posted by おおおかとしひこ at 00:09| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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