属性でしか見られないのは、
要するに人間の見方が浅いんだと思う。
回復能力持ちとか、お嬢様属性とか、獣人とか、
百合属性とか、癇癪持ちとか、
まあいろんな属性があるだろう。
それを考えては妄想するのは、
中二病のひとつだと思う。
だがそれと、
黒人は足が速いとか、
関西人は面白いとか、
大阪人はずうずうしいとか、
女はバカだとか、
差別的なことと何が違うのか、
ということだ。
悪いことを言うことが差別だとは僕は考えない。
浅い見方が差別の温床だと思っている。
バカなやつをバカというのは事実陳列罪だが、
女はバカだという偏見に基づいて、
バカじゃない女をバカだと断じるのは偏見や差別で、
どんな女もバカだから権力を与えないというのは差別であるわけだ。
男は賢いといういい加減な考え方すら僕は差別だと思うわけだ。
その個人をきちんと見る前に、
属性だけでその箱の中に入れてしまうことと、
属性だから性的興奮することの、
根は同じだと思う。
どちらも、「ものごとを単純な見方にしている」
という意味で。
つまり、
属性だけで分類する物語に、
僕は意味を見出していない。
その属性はあるものの、
その個人がどうか、
それがどのような個人と関係するかが物語だ。
先生と女子高生がセックスする、
という属性ポルノに興奮したとしても、
その先生がどういう人間で、過去はどうで、
などとしたはっきりとしたストーリーがあり、
その女子高生がどういう過去があり、
どのような事情があって、
などにはっきりしたストーリーがあれば、
それはポルノではなく、
もはやひとつの物語になるわけだ。
逆にポルノは、その個人個人の物語を捨象して、
ただの属性に還元することをやっていると思う。
「ただの男と女に戻って」なんてよくあるよね。
以前、新橋の客引きのお兄ちゃんに、
「女いる?」と質問していたおっちゃんのことが忘れられない。
「女」だったら誰でもいいのか、
とある意味そのおおざっぱさに感動すらした。
客引きのお兄ちゃんやおっちゃんは、
このエピソードでただの属性だ。
そこまで人間として認識がしていないからだ。
「女」はさらに抽象度の次元が上がっているけどね。
つまり、属性は抽象で、
物語は具体である。
その具体をひとつひとつ作っていくことが、
ストーリーテリングだ。
「人生でたった一人愛した男を刺す両性具有者」
という文言をツイッターでみた。
両性具有者だったらなんでもいいわけじゃないし、
人生でたった一人愛した男を刺す人は、
色んな人生があるだろう。
それをこのような一文に圧縮することが、
ポルノ的な抽象度だなあと思ったのだ。
もっとも、文学はポルノである、
などと乱暴な分類もできるがね。
〇〇だったらなんでもいい、
というのは性癖だろうと僕は思う。
それに反応して興奮すると。
〇〇だけじゃ足りない、
となってはじめて、理性でなにかを味わうことが始まるのだ。
ポルノから文学が独立するのは、
属性から具体になったときだろうか。
2021年08月12日
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