2021年08月13日

人と人が対峙する緊張感

現代はなるべく人と人が、
直接対峙しないようになっている社会であるともいえる。
これじゃあ、ドラマが生まれないのも当然だ。


ネットで匿名で何かをいう。
クレームは電話かメールにして、直接会わない。
むしろ、間にクレーム担当を挟む。
最近はラインで告白して、ラインで別れを告げるらしい。
直接会うリスクを避ける方法だろう。
喫茶店に呼び出して、
ああ、あの喫茶店二度と行きたくないなあ、なんて経験もないのかもね。

怒るときはいったん人を挟む。
直接交渉するのではなく、メールで。
目と目を見て話す、もめることを、
なるべく回避する方法だろう。

ところが、
その「もめる」ことこそ、物語なのだ。

感情のあまり、
言いすぎになることもあるだろう。
正確に議論できないかもしれない。
話したら決裂するに決まっている。
仲直りする自信がない。
ちゃんと言えるか分らない。

そうしたことを、
直接会うことを回避しているわけで、
しかし、そうしたことをやるのがドラマというものだ。

つまり、ドラマでは直接会せるとよい。
それで、直接会う緊張感が高まり、
とんでもない決定が起こる。
つまり、
覆せない確定が起こり、事態が進む。

直接対決する前のプレッシャーや準備も、
ドラマになる。
決定したあとの二回戦や、ルール破りの逆転なども、
ドラマになる。

つまり、ドラマを起こしたければ、
直接会わせる。

人と人が直接対峙して、何かを話し、ひとつの決定に至る。
それこそがコンフリクトで、ドラマなのだ。


それをわざと起こすには、
強制的に逃げられない場所へ動かすとよい。

「閉じ込められたエレベーター」がよくあるのも、
人と人を無理やり対峙させるためにあると言えようか。

その時に、ただその場にいきなり出現した人などいないということだ。
それまでの事情を抱えて、
それなりの決断をしてきて、
次に何をしようか計画しているはずだ。

それらが複数あるから、もめるのである。
そして、その「もめ」をつくるのが、
脚本家の仕事である。


「もめ」の結末は三種類ある。
1 二度と会うことがないくらい決裂
2 和解もしくは妥協
3 第三の新しい結論に至る

どれでも展開になる。
あるいは、「結論、出ず」というのもあるよね。
それでひっぱることはよくあることだ。



緊張して、できれば避けたい対峙を、描こう。
そこで必ずドラマが動く。
そして、また対峙を描こう。
そうやって、話は進むのだ。

当然、クライマックスというのは、最後の一番大きな対峙になる。

しかし、そこに至るまでに、
何回緊張感のある対峙が、何回あるか?
がストーリーであると言えよう。
posted by おおおかとしひこ at 02:55| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。