現代はなるべく人と人が、
直接対峙しないようになっている社会であるともいえる。
これじゃあ、ドラマが生まれないのも当然だ。
ネットで匿名で何かをいう。
クレームは電話かメールにして、直接会わない。
むしろ、間にクレーム担当を挟む。
最近はラインで告白して、ラインで別れを告げるらしい。
直接会うリスクを避ける方法だろう。
喫茶店に呼び出して、
ああ、あの喫茶店二度と行きたくないなあ、なんて経験もないのかもね。
怒るときはいったん人を挟む。
直接交渉するのではなく、メールで。
目と目を見て話す、もめることを、
なるべく回避する方法だろう。
ところが、
その「もめる」ことこそ、物語なのだ。
感情のあまり、
言いすぎになることもあるだろう。
正確に議論できないかもしれない。
話したら決裂するに決まっている。
仲直りする自信がない。
ちゃんと言えるか分らない。
そうしたことを、
直接会うことを回避しているわけで、
しかし、そうしたことをやるのがドラマというものだ。
つまり、ドラマでは直接会せるとよい。
それで、直接会う緊張感が高まり、
とんでもない決定が起こる。
つまり、
覆せない確定が起こり、事態が進む。
直接対決する前のプレッシャーや準備も、
ドラマになる。
決定したあとの二回戦や、ルール破りの逆転なども、
ドラマになる。
つまり、ドラマを起こしたければ、
直接会わせる。
人と人が直接対峙して、何かを話し、ひとつの決定に至る。
それこそがコンフリクトで、ドラマなのだ。
それをわざと起こすには、
強制的に逃げられない場所へ動かすとよい。
「閉じ込められたエレベーター」がよくあるのも、
人と人を無理やり対峙させるためにあると言えようか。
その時に、ただその場にいきなり出現した人などいないということだ。
それまでの事情を抱えて、
それなりの決断をしてきて、
次に何をしようか計画しているはずだ。
それらが複数あるから、もめるのである。
そして、その「もめ」をつくるのが、
脚本家の仕事である。
「もめ」の結末は三種類ある。
1 二度と会うことがないくらい決裂
2 和解もしくは妥協
3 第三の新しい結論に至る
どれでも展開になる。
あるいは、「結論、出ず」というのもあるよね。
それでひっぱることはよくあることだ。
緊張して、できれば避けたい対峙を、描こう。
そこで必ずドラマが動く。
そして、また対峙を描こう。
そうやって、話は進むのだ。
当然、クライマックスというのは、最後の一番大きな対峙になる。
しかし、そこに至るまでに、
何回緊張感のある対峙が、何回あるか?
がストーリーであると言えよう。
2021年08月13日
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