2021年08月05日

成功と失敗

Twitterでバズってるこの画像。
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これはストーリーにも当てはまる。


展開とはつまり、
成功か失敗かの二択を選び、
失敗すればバッドエンド、
成功すればハッピーエンド、
というくじをただ一回引くことではない。

一度失敗して、
修正して再び挑戦して、
また失敗して、
修正して再び挑戦して…
を繰り返し、
最後にようやく成功に報われるさまなのだ。

もちろん、
失敗×n+ただひとつの成功だけではなく、
失敗×n+小成功+失敗×m+小成功…
+…+最後の大成功
という風になっていてよい。
これが起伏だ。

つまり起伏とは、
失敗と成功を、何回もすることである。

失敗はくじ引きであるかもしれないが、
成功はくじ引きではない。
成功とは失敗の反省と修正の先にある。

そして、くじ引きの成功を描くのは物語ではなくギャンブルで、
反省と修正の先の成功を描くのが物語だ。

つまり、物語とは、
「なぜこれが成功したのか」に、
理屈をもって答えられる何かを提供するものである。


僕は「成功体験がないと物語は書けない」というが、
こうした、失敗からの成功の仕組みを、
体感で知っておかないと、
ただの一度のくじ引きしか書けないからである。
もちろん僕のいう成功体験とは、
一度のギャンブルでの成功体験では意味がなく、
失敗に失敗を重ね、
反省に反省を重ね、
修正に修正を重ね、
ついに「これだ」にたどりつき、
ようやくそれを実現して成功した体験のことをいう。

人生のすべてでそれを体験することは難しいから、
部活とか、バイトとかで、
小さい成功体験を積むと良いのだ。
僕がゲームでそれを積むのには反対で、
なぜならゲームは誰か(人間)の仕掛けで作られた擬似体験でしかないからだ。
神がつくったこの世界での成功体験をたくさん積んだほうが、
人生が豊かになる。

我々物語作家は、
「(神がつくった)この世界がどうなっているか」
に作家なりの答えを用意するべきであり、
たかが人間の作った世界の仕組みなどどうでもよいのである。


弊社が左の方針で非常に腹立たしい。
僕は右でしか成功したことがないが、
左を選ぶ人たちは反省会をいつもしない。
僕は失敗の後の反省会しか、
次の修正された失敗を出来ないと思ってるのだが。

おそらく、左を選ぶ人たちは、
成功をも外注しようというのだろう。
自分が負けギャンブラーだから、
勝ちギャンブラーを雇って一回勝負しようとするのだろう。
自分が失敗を乗り越えて修正して反省することが、
できないし経験してないと思っているに違いない。

じゃあその集団から逃走するか、
その集団を変えるしかないのかねえ。
分かってるやつらで別の集まりをつくる手もあるけど。

そういえば僕は、
そのスポーツの経験者でもないくせに、
観戦しながらぐちぐちいう人が好きではない。
そう思うならやればいいのに、といつも思う。
僕はプレイヤーであり、プレイヤーでないくせに批評するだけのやつが嫌いだ。
やればいいのに。

だから僕は五輪にほとんど興味がない。
やったことのないスポーツを、
自分でやってみる想像ができる解説なら、
ぜひとも見てみたい。
それは物語的であるから。



物語とは、
人生という神のつくった世界の擬似体験である。

右の図のほうが人生に近いし、
面白い物語に近い。

「人生とはこのような仕組みじゃないか」
に漸近する行為が物語で、
「再検証可能な世界とはこのような仕組みじゃないか」
に漸近する行為が科学で、
「神とはこのような仕組みじゃないか」
に漸近する行為が宗教だと、
僕は考えている。
posted by おおおかとしひこ at 06:16| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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