とでも言ってみようか。
芸能人に限らず、色恋営業全般で考えると分かりやすいかも知れない。
決して交われない一線を引いたまま、
中毒をなるべく継続させる商売。
それを芸能と呼ぶ、
と再定義してみるとわかりやすくなるかもだ。
歌、踊り、芝居などの、
生芸能は、
「その人に会う」ことと、
「その作品を味わう」を混同させる傾向にある。
たとえばジャニーズコンサートは、
歌詞世界や歌だけだったら、
CDで十分で、
生はなくてもいいよね。
ブサイクやダサイ衣装でもいいでしょ。
そうじゃないのは、
「その人の晴れ姿」という別ベクトルがあるわけだ。
映画やテレビなどの、
保存のきくものは、芸能だろうか?
テレビが録画できなかったころは、
テレビは芸能だったろう。
テレビでしか「会えない」という意識は強かったと思う。
テレビが録画できるようになったとき、
テレビも映画も、「記録」
みたいになってしまったような気がする。
せいぜい、芸能人たちが、
過去にわいわいやったときの記録程度に、
作品鑑賞から地位が落ちたような気がする。
野球の試合を録画してみるファンがいると聞いて、
僕はびっくりした記憶がある。
野球は生で見るものだろと思っていたが、
記録には記録の良さがあるらしい。
つまり今のテレビや邦画は、
「野球を録画して見るファン」
くらいにしか支えられてないのではない?
いつからか、テレビや邦画は、
芸能サブスクみたいになったような気がする。
フジテレビが邦画に進出したあたりからだろうか。
「純粋に作品作りをするよりも、
芸能人サブスクのほうが、
お手軽に儲かる」
ことが、示されてしまったような気がする。
だからシナリオの地位も、
監督の地位もおちて、
「芸能人サブスクをするための出し物の管理者」
「芸能中毒を再生産する出し物の管理者」
になったのではないか?
ジャニーズコンサートはそれを知っていて、
「とはいえ生コンの世界観はすごい」
と言わせるレベルの作品を出していると思う。
普段バラエティで見せる顔とは違う、
真剣な世界観構築、
みたいなことで、別世界を売りにしていると思う。
それは、ひとつの事務所という、
一つの力だから出来るのかもしれない。
今のように複数の力がうごめいて、
どこへ向かうか分からないサブスクでは、
一歩先ゆくジャニコンの、
足元にも及ばないかもしれない。
スターダストやオスカーが、
一時期一事務所だけの映画をつくろうと試みた。
だけど、独自の世界観を持つには至らなかった。
ビジョンが足りなかったのだと思う。
自前で全部やるよりも、
どこかに呼ばれる方がリスクが低いと分かったのかもしれない。
興行とは、
すなわち中毒の一環である。
そういう風に考えると、
作品性との両立をどう考えるべきか、
見えやすくなると思う。
2021年08月05日
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