2021年08月05日

芸能は中毒である

とでも言ってみようか。


芸能人に限らず、色恋営業全般で考えると分かりやすいかも知れない。

決して交われない一線を引いたまま、
中毒をなるべく継続させる商売。
それを芸能と呼ぶ、
と再定義してみるとわかりやすくなるかもだ。

歌、踊り、芝居などの、
生芸能は、
「その人に会う」ことと、
「その作品を味わう」を混同させる傾向にある。

たとえばジャニーズコンサートは、
歌詞世界や歌だけだったら、
CDで十分で、
生はなくてもいいよね。

ブサイクやダサイ衣装でもいいでしょ。
そうじゃないのは、
「その人の晴れ姿」という別ベクトルがあるわけだ。


映画やテレビなどの、
保存のきくものは、芸能だろうか?

テレビが録画できなかったころは、
テレビは芸能だったろう。
テレビでしか「会えない」という意識は強かったと思う。

テレビが録画できるようになったとき、
テレビも映画も、「記録」
みたいになってしまったような気がする。

せいぜい、芸能人たちが、
過去にわいわいやったときの記録程度に、
作品鑑賞から地位が落ちたような気がする。

野球の試合を録画してみるファンがいると聞いて、
僕はびっくりした記憶がある。
野球は生で見るものだろと思っていたが、
記録には記録の良さがあるらしい。


つまり今のテレビや邦画は、
「野球を録画して見るファン」
くらいにしか支えられてないのではない?

いつからか、テレビや邦画は、
芸能サブスクみたいになったような気がする。
フジテレビが邦画に進出したあたりからだろうか。

「純粋に作品作りをするよりも、
芸能人サブスクのほうが、
お手軽に儲かる」
ことが、示されてしまったような気がする。

だからシナリオの地位も、
監督の地位もおちて、
「芸能人サブスクをするための出し物の管理者」
「芸能中毒を再生産する出し物の管理者」
になったのではないか?


ジャニーズコンサートはそれを知っていて、
「とはいえ生コンの世界観はすごい」
と言わせるレベルの作品を出していると思う。

普段バラエティで見せる顔とは違う、
真剣な世界観構築、
みたいなことで、別世界を売りにしていると思う。

それは、ひとつの事務所という、
一つの力だから出来るのかもしれない。

今のように複数の力がうごめいて、
どこへ向かうか分からないサブスクでは、
一歩先ゆくジャニコンの、
足元にも及ばないかもしれない。


スターダストやオスカーが、
一時期一事務所だけの映画をつくろうと試みた。
だけど、独自の世界観を持つには至らなかった。
ビジョンが足りなかったのだと思う。
自前で全部やるよりも、
どこかに呼ばれる方がリスクが低いと分かったのかもしれない。


興行とは、
すなわち中毒の一環である。

そういう風に考えると、
作品性との両立をどう考えるべきか、
見えやすくなると思う。
posted by おおおかとしひこ at 11:00| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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