2021年08月18日

開いた設定と閉じた設定

設定の作り方にはいろいろあるのだが、
大きくふたつに分かれると思う。
開いた設定と、閉じた設定だ。


これは僕の造語だ。

開いた設定というのは、
いったん設定したときに、
どんどん設定が広がりを持つものをいう。
この設定でどんなドラマがあるんだろう、
と予想したり、
この設定の奥には何が隠されているんだろう、
きっとあれではないか、
などと想像したりすることが面白いもののことだ。

一方、
閉じた設定というのは、
「これ以上広がりようがない」場合。
いわば世界の端が見えて、
あとはまとめるのみ、
という状況になっているものだ。


ドラクエのマップなどは、
開いた設定そのものだ。
まだ見ぬ冒険を想像して、
わくわくするだろう。
あの大陸には何があるんだろう、
この大陸にどうやって行くんだろう、
なんてことを考えてしまうものだ。

あるいは、実は地下にも同じだけの広さのものがある、
という追加設定も開いた設定だ。
世界が広がり、そこを探検することを想像することが楽しくなってくるからね。

「世界三大〇〇」という設定も開いた設定である。
「八将軍」とか「四天王」とか「天下七人」とか、
まあなんでもいいよ。
四十八とか七十二とか、昔から日本にはそうしたものが沢山ある。


これに対して、
閉じた設定とは、
世界はとても狭く、すべてを見渡せるものだと思う。
ドラクエも終盤になり、
マップを全部制覇したころには、
すでにマップは閉じた設定に見えているだろうね。


ここからが本題。
映画の設定は、
開いた設定が良いか、閉じた設定が良いか、
ということだ。

僕は、閉じた設定にするべきだと考えている。
というのは、
映画というのは短編だからだ。

映画は二時間ものシナリオで、
書くには大変な労力がかかるものの、
他の長大な物語から比べると、
とても短い部類に入ると思う。
長大な物語というのはたとえば、
単行本何冊、何十冊にもわたる大河小説や漫画を想像すればよい。
それらの長大な物語を書くには、
開いた設定のほうがやりやすい。
風呂敷は広げたほうがやりやすい。

しかし映画は短編だ。
二時間で閉じなければならない。

それを考えると、
長大な物語に匹敵する設定など必要ないということになる。
もっと閉じた設定を全部生かすことのほうが大事だ。
もちろん、前半では開いた設定のように見えていることが大事だろう。
この風呂敷は面白いぞ、と広げることには一定の快楽があるからだ。
しかしきちんと終わらせるには、早々に世界は閉じなければならない。
扱える世界はせいぜいこのへんまでと見極め、
その世界を完結して、
それらにはこのような意味があったのだ、
とまとめなくてはならない。

長大な長編のような、開いた設定は、
映画には必要ないのだ。
(一本で扱いきれないほどの開いた設定をしてしまって、
続編で明かされる部分がある、
なんていうやつがいる。そんなものの続編などないというのに)


一方、長大な長編では、
開いた設定そのものが面白いという場合がある。
いま、そのストーリーが面白い、というとき、
閉じたものではなく、
開いた状態が面白い、
ということを指す場合がある。
たとえば鬼滅の刃では、
柱の十二人が出てきた開いた設定のときのほうが、
ラストの閉じつつあるときよりも面白かった。
そして人気の出た部分は、開いた設定の部分だ。

長大な長編を「面白い」という評価をするときは、
たいてい設定の開き方が面白い、ということを言っているにすぎない。
「面白い」にはたくさんの種類があるが、
長編の面白さとは、開いた設定の面白さである可能性もある。
それは映画の、閉じた面白さとは異なる次元である。

連載中の漫画の映画化が失敗する理由がこれだ。
開いたものを、閉じたものにすることで、
なんだか狭くなって、
しかも使っていない部分がとても余るからである。
映画として面白くなくなるわけだ。

で、漫画というのは、
幸せな完結をすることはほとんどない。
(最近幸せな完結は増えているように思うが)
だから、漫画の面白さとは、
完結したときの閉じた設定ではなく、
途中状態の開いた設定にあるのかもしれない。


開いた設定は、風呂敷を広げつつある状態、
閉じた設定は、風呂敷を畳もうとしている状態、
だともいえる。

映画は、はじまったときから、
すでに狭い風呂敷が決まっていて、
はじまったときから畳むことに邁進しているものである、
ということも出来るかもしれない。
作者はオチは分っていて、
そのオチへ向けて、ずっとまっすぐ行くものだからだ。
(オチが分らずにとりあえず書いたろ、
というパターンでは、いつまでたっても開いた設定しかできないだろう。
そうして最後まで書けない状態になるのだ)


「自分にもどう完結するか分らない設定をする」
のは、少なくとも映画という短編では間違っている。
最初から「ここからここまでの、
ごく狭い世界を扱う」ようにしておくべきだ。
posted by おおおかとしひこ at 00:10| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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