まあそれが出来たら苦労しないのだが、
ついつい「俺が到達した一番難しい理論を披露してやろう」
なんて思いがちだからね。
俺が一番苦労して到達した、
世界でもっとも緻密なパズルを披露しようとか、
俺が誰も気づいていない世界の真理を、
完全に網羅した複雑な理論を発表しようとか、
俺が構築した、
もっとも完全な世界を披露しようとか、
そういうことは創作にはいらないかもしれない、
という話をする。
対極は、指輪物語のような、
架空世界の地図から言語まで、
相当複雑に世界を構築するものだろうか。
僕は複雑なものは嫌いじゃないが、
「もうそれは指輪物語でやってるから、
必要ないのでは?」と、
極端に思ってしまう。
もちろん、すごく面白いSF的な世界とか、
知らないファンタジーに浸る愉しみを否定しないが、
だからといって、
それが指輪物語が提示した、
架空世界の面白さと同等くらいにしかならないということだと思っている。
そこで勝負するのではなく、
もっとメジャーで勝負するべきだと。
つまり、
その緻密さに耐えられる知的レベルの人を、
作品で峻別するべきではない、
ということだ。
「この話が分らないやつはバカだ」とか、
「これが分らないとはレベルが低い」と、
ついつい思ってしまうのだが、
それはあなたがその構築に時間をかけたからである。
大衆は、あなたの構築した世界を、
数秒でみるべきかどうか判断し、
数分で価値があるかどうか判断する。
十分かそこらで俺はこの世界に向いていないと捨てる。
それはあまりにももったいない。
あなたの世界が価値があるならば、
それがわかりやすく提示されていることに、
なんの損もないはずだ。
一番あり得るパターンは、
分りやすくしてしまったら、
たいしたことがないことが、ばれてしまうパターンだ。
それが複雑にしているから一見良いように見えるだけで、
そのベールを剥がしてしまえば、
大したことしてないとばれてしまうやつだ。
分りやすくしよう。
分りやすくしても、強度を失わないものをつくろう。
分りやすくして強度が弱くなるならば、
それはもともと脆弱なものだったのだ。
もっと強いものを。
もっとシンプルに楽しめるものを。
理解する前提が多いのはかまわない。
それをすべて理解して、
シンプルに楽しめるならば、
人はついてくる。
理解する前提が多い癖に、
楽しむのに頭を使いすぎて、
ややこしくなるのはいらないものである。
藤井聡太が出てきたときに、
「なぜ藤井が他の棋士とくらべて特別に強いのか」を解説できなかった、
将棋界は無能であった、
という論があって、なるほどと思った。
藤井は異次元の強さっぽいのだが、
それがどのようなシステムで構成されているのか、
誰にでもわかりやすく解説できていれば、
「将棋ってすごいな」とか、
「俺にもできるかもしれない」とかなって、
将棋人口は増えただろう。
しかし、藤井がすごいだけで、どうすごいか分らないならば、
結局昼飯何食ったかしか報道されないのだ。
「なんか複雑で分らないもの」で終わってしまっているのである。
ちょっとくらい間違ってもいいから、
「藤井はここがこうすごいんです。
これは今までの誰もマスターしていない技術だった」とか、
「新しい戦法すぎて、まだ誰も理解していない。
しかしこういうときにこうだというセオリーを、
このように常識を崩してきた」とか、
そういうのを聞きたかったよね。
(終盤の読みがすごいらしい。
藤井は詰将棋クリエイターとしてもすごいらしい。
だったら、その終盤ありきの中盤の解説とか、
どんどんすればいいのになあ)
それがどういう風に行われているか、
同等の者しか理解できないのなら、
多くの人が楽しめるものにはならない。
ラグビーワールドカップは、
そうした「普及」の目的があって、
だからみんなにある程度認められたように思う。
将棋は、「分らないやつは分らなくていい」と、
言われているように思えて、
門戸は開かなかったと思う。
あなたの書くものは、
将棋のようなものか?
それとも、
ディズニーやラグビーのように、
分りやすくかつ強度のあるものか?
ディズニーが最高かどうかは分らない。
ディズニーなみにわかりやすく、
ディズニーなみに面白ければ、
ディズニーを超えてもいいんだよ。
藤子不二雄なみにわかりやすく、面白ければいいんだ。
全員を味方につければいいんだ。
分りやすく、しかも全員を面白がらせるものを、
考えるべきだ。
分るやつに褒められることしかやっていないのは、
その強いスポットライトにさらされる勇気がないからなんだ。
あなたは「すごい」と言われるべきではなくて、
「おもしろい」と言われるべきなんだ。
2021年08月19日
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