2021年08月20日

なぜ「誰も傷つけない表現」はないのか

極論すると、主張とは他を押しのけることだからだ。


誰も傷つけない笑いなどない。
誰も傷つけないストーリーはない。
誰も傷つけない音楽もない。

表現というのは内部から出たエネルギーを昇華させることだ。
「私はここにいる」と言うことである。

私がここにいると、
席を奪われた人や、
嫌がる人が出るということである。

だからものを言わなくなってしまった人を、
人は陰キャという。
陰キャは、人を傷つけたくない人だ。
自分も傷つけたくないんだけど。

陽キャは、それに気づかず、
主張できる人のことだ。

世界は陽キャで回っている。
誰も気づかず、誰かを傷つける。
私はここにいるというだけで、
傷つく人がいるからだ。


表現者は、これを理解しなければならない。
あなたがいるだけで傷つくのだ。

それでもあなたが表現するのは、
誰かを傷つけるためではない。
その表現に価値があるからだ。

換金価値はこの際どうでもいい。
それが役に立つとか、啓蒙になるとか、
新しい考え方を知れるとか、
具体的な価値でなくてもよい。
おもしろい、すてき、うつくしい、
皮肉である、おそろしい、不安になる、
なんでもよいから強烈な感情を催せば、
それは価値がある。

0ではない何かのベクトルが表現だ。

受けるか受けないかも関係ない。
あなたがそこにいることが、
うまく、強く、よく、表現されていれば、
それは価値がある。


あなたはあなたのために表現をする。

それが、たくさんの人に見られたときに、
誰かを傷つける覚悟をもって、
あなたは表現をする。

傷つけた人々がいなくなった空間に、
あなたが座るからである。

表現とはすなわち生存競争に他ならない。
あなたがあなたでいるだけで、
誰かが傷つく。

あなたはそれに無知であってはならない。
勝利者は、負けて去った者を記憶するのが義務である。



もし、あなたの意図せざるところで、
誰かを傷つけてしまっているならば、
あなたは自分の不注意や不勉強や不分明を恥じるべきだ。

でもオムライス漫画を描いたら、
「卵アレルギーの人に配慮してください」
なんてクレーム付けられる社会だ。
ハラスメントもクレームも、
言ったものがちの社会になっている。

「あなたの卵アレルギーのせいで、私の漫画が傷つきました。
謝ってください」と逆に傷つけられたと訴えるとどうなるだろう?
泥沼だ。

つまり、表現とは生存競争の泥沼にすぎないのだ。


表現を商売にする側は、
不買運動が怖いだけだ。
そこに至らなければOKで、
その範囲で、傷つけることが表現であり、
その表現で金儲けをしていることは分かっている。

取り下げるのは、それ以上被害を拡大しないために過ぎない。

「いや、私は作家を守るから、
そのクレームはすべて私が対処するよ。
だって私がOKを出したんだもの」
という編集者は、
昭和にしかいなかった。
今はトラブルを起こした咎で、首を切られるだけであろう。



あなたはあなたがそこにいることを、
表現で昇華する。
それで救われる人がいる。
その席に座っていいんだと肯定されることで。

誰も救わないなら、傷つける表現は意味がない。
傷つける人よりも、救う人の方が多いものを、
価値のある表現という。

あとは、あなたの覚悟次第だ。
posted by おおおかとしひこ at 00:06| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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