極論すると、主張とは他を押しのけることだからだ。
誰も傷つけない笑いなどない。
誰も傷つけないストーリーはない。
誰も傷つけない音楽もない。
表現というのは内部から出たエネルギーを昇華させることだ。
「私はここにいる」と言うことである。
私がここにいると、
席を奪われた人や、
嫌がる人が出るということである。
だからものを言わなくなってしまった人を、
人は陰キャという。
陰キャは、人を傷つけたくない人だ。
自分も傷つけたくないんだけど。
陽キャは、それに気づかず、
主張できる人のことだ。
世界は陽キャで回っている。
誰も気づかず、誰かを傷つける。
私はここにいるというだけで、
傷つく人がいるからだ。
表現者は、これを理解しなければならない。
あなたがいるだけで傷つくのだ。
それでもあなたが表現するのは、
誰かを傷つけるためではない。
その表現に価値があるからだ。
換金価値はこの際どうでもいい。
それが役に立つとか、啓蒙になるとか、
新しい考え方を知れるとか、
具体的な価値でなくてもよい。
おもしろい、すてき、うつくしい、
皮肉である、おそろしい、不安になる、
なんでもよいから強烈な感情を催せば、
それは価値がある。
0ではない何かのベクトルが表現だ。
受けるか受けないかも関係ない。
あなたがそこにいることが、
うまく、強く、よく、表現されていれば、
それは価値がある。
あなたはあなたのために表現をする。
それが、たくさんの人に見られたときに、
誰かを傷つける覚悟をもって、
あなたは表現をする。
傷つけた人々がいなくなった空間に、
あなたが座るからである。
表現とはすなわち生存競争に他ならない。
あなたがあなたでいるだけで、
誰かが傷つく。
あなたはそれに無知であってはならない。
勝利者は、負けて去った者を記憶するのが義務である。
もし、あなたの意図せざるところで、
誰かを傷つけてしまっているならば、
あなたは自分の不注意や不勉強や不分明を恥じるべきだ。
でもオムライス漫画を描いたら、
「卵アレルギーの人に配慮してください」
なんてクレーム付けられる社会だ。
ハラスメントもクレームも、
言ったものがちの社会になっている。
「あなたの卵アレルギーのせいで、私の漫画が傷つきました。
謝ってください」と逆に傷つけられたと訴えるとどうなるだろう?
泥沼だ。
つまり、表現とは生存競争の泥沼にすぎないのだ。
表現を商売にする側は、
不買運動が怖いだけだ。
そこに至らなければOKで、
その範囲で、傷つけることが表現であり、
その表現で金儲けをしていることは分かっている。
取り下げるのは、それ以上被害を拡大しないために過ぎない。
「いや、私は作家を守るから、
そのクレームはすべて私が対処するよ。
だって私がOKを出したんだもの」
という編集者は、
昭和にしかいなかった。
今はトラブルを起こした咎で、首を切られるだけであろう。
あなたはあなたがそこにいることを、
表現で昇華する。
それで救われる人がいる。
その席に座っていいんだと肯定されることで。
誰も救わないなら、傷つける表現は意味がない。
傷つける人よりも、救う人の方が多いものを、
価値のある表現という。
あとは、あなたの覚悟次第だ。
2021年08月20日
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