2021年08月09日

【風魔】風魔の寂寥感のこと

風魔はなんだか中毒性があって、
どことなく漂う寂寥感があると思う。
虚しさやもののあはれとは少し違う感じ。
死を日常にした忍者もの特有のものかも知れない。


だが風小次を忍者もののカテゴリーにするのは、
ガッチャマンを忍者ものと言い張る程度には乱暴だとは思う。

とはいえ車田漫画の中では、
生き返らないし殺し合うし、
生活が一切描かれないしで、
車田忍者ものというジャンルにはいると思う。

(原作の中で「生活」が描かれたのは、
姫子の夢を見るシーン、
偽項羽が寝所に忍び込んだ悪ふさげシーン、
喫煙してるヤンキーに武蔵が聞きにくるシーン、
武蔵が寺に寄宿して銅像を彫ってるシーン、
くらいだろうか)

だけど忍者もの特有の殺伐とした感じや、
無常感が風小次にはない。
乾き切った感じにならない、
常に濡れた感じの車田絵だからかも知れない。
(感情はドライかも知れないんだけど、
絵がウェットなんだよなあ)


ドラマでは、
ただバトルをしてるだけだと予算がなくなる制約と、
「あいつらの日常を垣間見たい」というふたつの条件から、
忍者ものでありつつも、
学園ものとしても解釈を広げた。

柳生屋敷は合宿の感じだし、
部活から離れないようにしたし、
白凰学院は常に真ん中にあるようにした。

EDが秀逸で、
「もし彼らがただの高校生だったら」
あり得ただろうワイワイを、
うまく描けていると思う。

つまり振り幅だ。
次々死んでいくことは変わりないから、
その悲劇に対して、
カウンターで楽しい感じを当ててるわけだ。

そこで楽しければ楽しいほど、
学園生活が楽しいほど、
その後の悲劇が引き立つわけだ。

でも麗羅以外は、原作同様ドライに死を描こうとした。
それは当たり前であると皆は考えていると。
小次郎だけがそれを納得してなくて落差を出した。
つまりドラマは、
それを小次郎が納得するまでの話だともいえる。
主人公の変化こそがドラマだからね。
変化しないストーリーは実写的なストーリーではない。
漫画のキャラは変化しない事が多いけど。
(そのへんは監督メモにも書いたか)

ウェットな死、ドライな死を繰り返しつつ、
ドラマはそれを納得するまでを描くわけだ。


だから、最後のほうはとても寂しい。
子供が成長した親の気持ちに近いのかな。
手元を離れてどこかへ小次郎が行ってしまう感じ。

でも振り返れば、わちゃわちゃした風魔たちがすぐそばにいて、
それってなんか卒業式に似てるなと思ったんだよね。

原作の二次創作でも、
全員が揃ってるところを描きがちだと思う。
五人衆に減った前提で書かないと思う。

やっぱ全員集合が基本の考え方になってて、
それってクラスみたいな感覚に近いと思う。

学園ものと相性がいいのはそうしたことだろう。
仮に衣装が学ランじゃなかったとしても、
おそらく学園ものに出来たのではないかな。
(チームものは学園ものにできる。最近だとハイスクール鬼滅学園か)

その楽しかったクラスから、
卒業しなければならない朝、
みたいな感覚が、
ドラマ風魔の持つ、充実した寂寥感ではないかなあ、
と僕は思った。


僕は大阪の中高一貫六年式の男子校出身だ。
(だから風魔のわちゃわちゃ感はいつも通りのノリである。
女子がいるとやりにくくてしょうがない。
EDで蘭子姫子に乱入されるのはそんな感じ)

卒業式の日、なぜ明日からもう来なくていいのか、
よく分からなかった。
なぜ成長しないといけないのか、
理解が追いついてなかった。
それほどに男子校六年というのは楽しかったのだ。

その充実した記憶と、
次々に死んでいく忍者ものとの、
融合したアンビバレンツな感じが、
風魔の最終回に起きる卒業式の感覚なのかもしれない。


原作にこの感覚はない。
生活感がなく、ただのバトル漫画だからね。
う!なにい?!ガカァってやってるうちに終わってしまう、
通り過ぎて何も残らない漫画だ。
なんでこれに夢中になってたのか分からないけど、
それはやはり通底する忍者もの共通の寂寥感が、
なんだか魅力があったからかも知れない。

ドラマ版はそれを、もっと卒業式方向に振ったものだ、
という考え方が出来るなあと思った。


見終えてみると、
なんだかんだでみんなが揃ってるOPやED、
初期の頃のわちゃわちゃが楽しく思い起こされる。
それは現在ではなく、手の届かない過去だ。

初見の頃は、「いっぱいいすぎ」と思ったり、
「誰が誰か区別つかねえ」と思ったり、
「夜叉はイロモノだからまだ覚えられるが、
風魔が区別つかねえんだよな」
なんて思ってたはずなのに。

それも含めて、卒業式に感じる感覚に似てるなあ、
と思ったんだよね。



ドラマ風魔は卒業式に感じるあの感覚を、
通してみることの出来るドラマ。
そんな風に考えることもできて、
そりゃ中毒性があるのでは、
などと考察してみた次第。

これは女子も同様に感じるのかな。
男女を逆にして女子校にしてみると、
それはそれでわかる感じはある。
(AKBや坂道系のグループアイドルものでは、
加齢による卒業ばかりで、
充実した卒業式がなかなか得られないね。
その後活躍してる人もほとんど見ないから、
賞味期限切れが卒業の条件みたいになりつつある。
アイドルを題材としたアニメでは、
グループから卒業したりするんだろうか。みてないが)


ドラマ風魔は、原作風小次を、
卒業式に感じるあの感覚を得られるように、
膨らましたものである。
そのように、今回僕は見終えて思った。

終わってみればあんなことやこんなこともあったけど、
なんだか良かったね、ってなる感じ。
ほんとは沢山死んでるし、
高校一つ潰れてるし(校舎解体するらしいし)、
そんな爽やかな状況ではないはずなのにね。



リアルタイムでは、
まだ延長線上に舞台版があって、
卒業旅行にまだいくぞ、って感じだったろうか。

全部が終わって、風魔ロスになったあの感覚を、
思い出すなあ。


この良さが聖剣戦争編では出ないだろう。
カオス学園にすれば出たりして。
学園忍者ものにするのか、
コズミック忍者ものにするか、
聖剣戦争編をつくるならば、
決断しなければならないだろうね。


一つ所に留まらず、常に形を変え続ける。

自分で書いた台詞に、僕は今日も勇気を貰っている。
posted by おおおかとしひこ at 20:18| Comment(0) | 実写版「風魔の小次郎」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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