人生のリアルでいうと、
チャンスを待っていれば来るかもしれない。
しかしそれは何年待てばいいのか、
誰にも分らない。
物語の扱う時間よりやや長いと思う。
物語では、
待っていてチャンスがやってくるのはリアルではない。
何もせずずっと待っていて、
あるいはずっと鍛えていて、
突然チャンスがやってきて、
ホームランを打つ話よりも、
ある問題を抱えて、
それを自ら解決して、ホームランを打つ話のほうが、
面白い。
それだけのことだと思う。
なぜなら、
「自らピンチを切り開くべきだ」というメッセージのほうが、
「ラッキーを待ち続けろ」というメッセージより強いからではないかと思う。
あなたの人生が待ち続ける人生か、
それとも状況を切り開く人生か、
どちらかは知らない。
しかし物語において、
後者のほうが、より強く、面白くなるということである。
だから、特定のパターンしか、フィクションにはでてこないという言い方もある。
力強く、憧れになる、ただしい、
パワフルなパターンしか出てこないと。
だからといって、「リアル」な待ち続ける人物を描いても、
退屈しかないものだ。
それが人生さ、という皮肉はいらないと僕は思う。
なぜなら、そんな人生を一時わすれて、
人生は熱狂に値する、ということを見たくて、
人は映画館に行くからである。
映画に、知っている退屈な人生を再確認しにいくのか、
やや見たことのあるパターンではあるが、熱狂できる素晴らしい話を見に行くのか、
ということだ。
僕は後者だと思っている。
わざわざシニカルになるために映画館に行くだろうか、ということだ。
まあ逆張りのひねくれものも世の中にはいるから、
ゼロではないと思うが、
より多くの人を熱狂させるのは、
よく出来た積極的な話であって、
チャンスを待ち続ける話ではない。
もしそれが面白く描けて、
スタンダードなストーリーより価値があるならば、
チャンスを待ち続け、大逆転するストーリーでもつくると良い。
それが面白くない理由はひとつだけあって、
ラッキーだとご都合主義にみえる点だ。
人は人生に因果関係を見出したい。
もしラッキーだけで勝利してしまったら、
因果関係などないということになってしまう。
作中の因果関係ではなく、
「作者がそうしたかっただけやんけ」という、
作外の因果関係に気づかれてしまう。
それはフィクションとしてよくないと思う。
そうではなく、
作中だけの情報で、
あれはああだから、人生とはこういうものであり、ああするべきなのだ、
などのような因果関係を見出せるものであるべきだ。
それがリアルで、面白くするものが、
フィクションの物語のひとつの、そしておそらく唯一の勝利パターンだと僕は考えている。
果たして、
待ち続けるだけで勝利した人は、
人生にいただろうか。
僕はそんなに見ていないから、やっぱり人生の真実に、
待つという正解はないのかもしれないが。
(下手に動いて失敗した人は見たから、
動く時期を見極めることは重要かもしれない。
それはフィクションでも描けるだろう)
2021年08月22日
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