2021年08月22日

チャンスは待っていても来ない

人生のリアルでいうと、
チャンスを待っていれば来るかもしれない。
しかしそれは何年待てばいいのか、
誰にも分らない。
物語の扱う時間よりやや長いと思う。

物語では、
待っていてチャンスがやってくるのはリアルではない。


何もせずずっと待っていて、
あるいはずっと鍛えていて、
突然チャンスがやってきて、
ホームランを打つ話よりも、
ある問題を抱えて、
それを自ら解決して、ホームランを打つ話のほうが、
面白い。

それだけのことだと思う。

なぜなら、
「自らピンチを切り開くべきだ」というメッセージのほうが、
「ラッキーを待ち続けろ」というメッセージより強いからではないかと思う。

あなたの人生が待ち続ける人生か、
それとも状況を切り開く人生か、
どちらかは知らない。
しかし物語において、
後者のほうが、より強く、面白くなるということである。

だから、特定のパターンしか、フィクションにはでてこないという言い方もある。
力強く、憧れになる、ただしい、
パワフルなパターンしか出てこないと。

だからといって、「リアル」な待ち続ける人物を描いても、
退屈しかないものだ。
それが人生さ、という皮肉はいらないと僕は思う。
なぜなら、そんな人生を一時わすれて、
人生は熱狂に値する、ということを見たくて、
人は映画館に行くからである。
映画に、知っている退屈な人生を再確認しにいくのか、
やや見たことのあるパターンではあるが、熱狂できる素晴らしい話を見に行くのか、
ということだ。
僕は後者だと思っている。

わざわざシニカルになるために映画館に行くだろうか、ということだ。

まあ逆張りのひねくれものも世の中にはいるから、
ゼロではないと思うが、
より多くの人を熱狂させるのは、
よく出来た積極的な話であって、
チャンスを待ち続ける話ではない。

もしそれが面白く描けて、
スタンダードなストーリーより価値があるならば、
チャンスを待ち続け、大逆転するストーリーでもつくると良い。
それが面白くない理由はひとつだけあって、
ラッキーだとご都合主義にみえる点だ。

人は人生に因果関係を見出したい。
もしラッキーだけで勝利してしまったら、
因果関係などないということになってしまう。
作中の因果関係ではなく、
「作者がそうしたかっただけやんけ」という、
作外の因果関係に気づかれてしまう。
それはフィクションとしてよくないと思う。
そうではなく、
作中だけの情報で、
あれはああだから、人生とはこういうものであり、ああするべきなのだ、
などのような因果関係を見出せるものであるべきだ。

それがリアルで、面白くするものが、
フィクションの物語のひとつの、そしておそらく唯一の勝利パターンだと僕は考えている。

果たして、
待ち続けるだけで勝利した人は、
人生にいただろうか。
僕はそんなに見ていないから、やっぱり人生の真実に、
待つという正解はないのかもしれないが。
(下手に動いて失敗した人は見たから、
動く時期を見極めることは重要かもしれない。
それはフィクションでも描けるだろう)
posted by おおおかとしひこ at 01:43| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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