フィクションを摂取する理由のひとつに、
「ここじゃないどこかへ行きたいから」というのがあると思う。
旅や留学や引っ越しなどと、
同じ理由だ。
もしまったく違った地に生まれていて、
まったく違った会社にいたり、
まったく違った職種についていたり、
まったく違った人たちと知り合っていたら、
あるいは、まったく違った原理の世界にいたら。
「ここじゃないどこか」は、ある種の現実逃避だ。
だから、
まったく違うものを味合わせてあげるべきだ。
ところが、
つい書いてしまうものは、
現実に近いものだったりする。
それは、
取材しなくても書けるからとか、
想像がつきやすいからとか、
現実に影響を与えるさまを描きたいからとか、
「作者側の理由」であることがとても多い。
それは、観客のほうを向いていないと思う。
「ここじゃないどこかへいきたい」という人に対して、
そのへんのことと変わらないことを、
見せてもしょうがないのではないか?
まったく違う世界をつくったり、
まったく違う原理で動いている世界をつくりあげることは、
とても労力がいる。
新しい外国を造り上げる力は、
並大抵の実力では無理だろう。
だけど、だから面白いという見方がある。
あなたも、きっとここじゃないどこかへ行きたいはずだ。
今と違う価値観が支配してて、
まったく違う原理で世界が動いていて、
まったく違う文脈があって。
死ぬほど「なろう」で流行っている異世界転生は、
その願望に答えるものである。
ファンタジーを書け、といっているのではない。
「ここじゃないどこか」を書け、
ということを言っている。
別に現代日本でだって、
東京から見た関西は異世界だし、
男子から見たおばさんの世界は異世界だぜ。
銀行員と土方の世界は互いに異世界だろう。
そういう、
異世界と異世界の接触を描くのが、
物語の面白さというものだ。
コーヒーと牛乳がまざる、その境界面のイメージだ。
そこで混ざったり、対立したり、
分離したり、回転したりすることが、
フィクションの面白さだ。
コーヒーや牛乳といういつもの世界ではなく、
境界面が混ざる瞬間の面白さが、
フィクションという物語だろう。
ここじゃないどこかへ行きたいか。
だったら、
ここへ行くと面白いぞ、
という、まったく違った世界をつくりなさい。
みんな、そこへ行きたくなるに違いない。
フィクションの仕事ととは、
その作品でしか見れない世界を作り上げることでもある。
もちろん、単なる世界観ビジュアルでもなく、
設定でもない。
そこで起こる出来事、事件、展開などが、
一体になって起こる、
「ここじゃないどこかで起こっていること」だ。
古い土地の風習が色濃く残る田舎で、
殺人事件が起こる、
というだけで、
すでに「ここじゃないどこか」は始まっている。
いつものところで、いつもの感じではない、
何かがそこにある予感がある。
その予感を与え、
かつ遊ばせなくてはならない。
ある種の遊園地、テーマパークの設計に似ているかもしれない。
2021年08月30日
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