2021年08月30日

ここじゃないどこかは、そこ

フィクションを摂取する理由のひとつに、
「ここじゃないどこかへ行きたいから」というのがあると思う。
旅や留学や引っ越しなどと、
同じ理由だ。


もしまったく違った地に生まれていて、
まったく違った会社にいたり、
まったく違った職種についていたり、
まったく違った人たちと知り合っていたら、
あるいは、まったく違った原理の世界にいたら。

「ここじゃないどこか」は、ある種の現実逃避だ。

だから、
まったく違うものを味合わせてあげるべきだ。

ところが、
つい書いてしまうものは、
現実に近いものだったりする。
それは、
取材しなくても書けるからとか、
想像がつきやすいからとか、
現実に影響を与えるさまを描きたいからとか、
「作者側の理由」であることがとても多い。

それは、観客のほうを向いていないと思う。
「ここじゃないどこかへいきたい」という人に対して、
そのへんのことと変わらないことを、
見せてもしょうがないのではないか?

まったく違う世界をつくったり、
まったく違う原理で動いている世界をつくりあげることは、
とても労力がいる。
新しい外国を造り上げる力は、
並大抵の実力では無理だろう。
だけど、だから面白いという見方がある。

あなたも、きっとここじゃないどこかへ行きたいはずだ。
今と違う価値観が支配してて、
まったく違う原理で世界が動いていて、
まったく違う文脈があって。

死ぬほど「なろう」で流行っている異世界転生は、
その願望に答えるものである。
ファンタジーを書け、といっているのではない。
「ここじゃないどこか」を書け、
ということを言っている。

別に現代日本でだって、
東京から見た関西は異世界だし、
男子から見たおばさんの世界は異世界だぜ。
銀行員と土方の世界は互いに異世界だろう。
そういう、
異世界と異世界の接触を描くのが、
物語の面白さというものだ。

コーヒーと牛乳がまざる、その境界面のイメージだ。
そこで混ざったり、対立したり、
分離したり、回転したりすることが、
フィクションの面白さだ。
コーヒーや牛乳といういつもの世界ではなく、
境界面が混ざる瞬間の面白さが、
フィクションという物語だろう。

ここじゃないどこかへ行きたいか。
だったら、
ここへ行くと面白いぞ、
という、まったく違った世界をつくりなさい。
みんな、そこへ行きたくなるに違いない。

フィクションの仕事ととは、
その作品でしか見れない世界を作り上げることでもある。
もちろん、単なる世界観ビジュアルでもなく、
設定でもない。
そこで起こる出来事、事件、展開などが、
一体になって起こる、
「ここじゃないどこかで起こっていること」だ。

古い土地の風習が色濃く残る田舎で、
殺人事件が起こる、
というだけで、
すでに「ここじゃないどこか」は始まっている。
いつものところで、いつもの感じではない、
何かがそこにある予感がある。
その予感を与え、
かつ遊ばせなくてはならない。
ある種の遊園地、テーマパークの設計に似ているかもしれない。
posted by おおおかとしひこ at 00:47| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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