2021年08月26日

花瓶を割って、注目を浴びたい子供(貞本版「エヴァンゲリオン」評4)

貞本版の出来の良さによって、
結局エヴァが何がしたかったのか、
なんとなくわかって来た。
それは小学生が、花瓶を割って注目を浴びたい行動に似ている、
ということが出来る。


エヴァは衝撃的な展開が話題になったし、
それがトラウマを与えたものが沢山ある。
それが売りのようなところがあった。
でもそれは衝撃という刺激にすぎず、
多くのそれらは回収されることなく、
ただのビックリ要素にすぎず、
ストーリーが深くなることもないし、
謎を増やすだけのなにかでしかなかった。
(そしてその謎の全容は解明されない)

これは何に似ているのだろう、と考えて、
教室で、注目を浴びたいがために、
花瓶を割る子供に似ているなあと思うわけだ。

本来要求される「正しいこと」が上手ではなく、
ビックリすること、意外なこと、
やっちゃいけないことをする行為。
それは、
「目立つことが目的」だと思う。

正しく目立つこと、つまりちゃんとしているとか、
成績がいいとか、誰にもない個性があるとか、
そういうことが出来ていない子が、
ただ目立つためだけに、
花瓶を割ることで目立つ行為。

それに似ている。

つまり、
「なんのために、エヴァを語るか」という、
作者の動機の問題である。

なぜアスカが狂ってしまったのか。
なぜレイが心を通わせたにも関わらず死んだのか。
なぜカヲルはあんな残酷な要求をしたのか。

それは、
「そこに込められた意味を回収して、
実はこういう壮大なものを語るために、
必要なことであったのだ」という物語を見せたいのではなく、
「どうだ、すごいだろ、びっくりしただろ、
衝撃だろ、やっちゃいけないことをやってやったぞ!」
をしているだけだと思った。

つまり、作者は、お話を語りたいのではなく、
びっくりさせて、ショックを与えて、
ドヤしたいだけなのだと。

だから、あとさきのことを考えていない。

花瓶を割ったら後片付けがあり、
水を拭き、破片を怪我しないように集め、捨て、
新しく花を買ってくる、
ということがあとあと必要だと考えて、
花瓶を割るのではない。
ただビックリさせたいこと、注目を浴びることが目的だからだ。

アスカが狂ったあとにどうやって復活したのか、
なぜそうなり、なぜ復活するのか、
あるいは復活しないのだとしたら、
それまでのアスカのことは何にもならなかったのか、
レイが、カヲルが(以下同)、
などは何も考えていなくて、
ただビックリさせたいがゆえに、
ただ「すげえ!」と言われたいがゆえに、
後先考えずに、
やってしまったことのような気がする。

だから、「ストーリー展開」が、
ほとんどなかった。

すべて衝撃的な場面をつないだ、
ストーリー以前の、衝撃場面集でしかなかった。
つまり、
出オチがずっと続いているようなことだ。


アスカの初登場は衝撃だった。
天才少女が洋上で大艦隊とともに使徒を倒すとか、
ゲーセンで喧嘩っ早く性格が悪い女であるとか、
とにかく第一印象が強烈であった。

だが、それ以上の「展開」がなかった。
加持への思いは宙ぶらりんだし、
せっかくシンクロしたシンジともなにもなっていない。
試験管ベイビーだという、
母と義母への思いも昇華していない。
(貞本版は、それが狂うことの入り口で、
それがうまく解消したことが出口になっている)

たとえば、以下のような展開がありえた。
シンクロしたシンジとの恋愛未満友達以上の展開。
クラスでレイとシンジとで三角関係になる展開。
一回シンジがレイよりもアスカを好きになる展開。
加持の死を知り、落ち込むアスカをシンジが励ます展開。
アスカがシンジを好きになる展開。
リアルに義母や母と向き合う展開。

これらの展開がアスカになかったことが、
ストーリーを語りたいというよりは、
びっくりさせたいんだ、
という思惑が透けて見える。
アスカの人生などどうでもいい、
彼女の人生を楽しんだり味わったり感情移入することなどどうでもよい、
ほら、すごい展開でびっくりしただろ?
という思惑が透けて見える。

なぜか。
「正しい展開」をする実力がなかったからだ。

成績を上げるとか、個性的なことをするとかが出来ず、
花瓶を割ることでしか目立てない子供だったからだ。
作者が。

盛りすぎた設定や、
衝撃展開と呼ばれる、
出オチを出オチでつぶす展開は、
すべて、
「まともにストーリーを語る実力のない者」
のすることだと僕は感じた。

レイに関しても、
「人造人間は人間になれるか」という問いを立てておきながら、
殺して、巨大化させて終わりだった。
全裸で覆いかぶさる鉄板の出オチから、
手をつないだと思ったら、
それで終わり。
それ以上の展開するストーリーテリングがなく、
出オチを出オチで潰す(死ぬ、三体目の登場、
巨大化)ことしかしなかった。
なんという設定殺しか。

せっかくカヲルという、
「ゼーレが作った人造人間かつ使徒」という展開も、
ゼーレが次にも人造人間をつくるとか、
それらとかかわりあうとか、
レイと彼らが対話して反旗を翻すとか、
色々期待される展開はあったろうに。

それらの考えうる展開をすべて裏切り、
花瓶を割る行為ばかり続けるほんとうの理由は、
「そこまで面白いストーリーを語る才能がない」
ことだと思うんだよね。
だから割って驚かすことしか出来ないんだと。


こんなことを知りたくなかった。
貞本版は、
それらをうまく毒抜きして、
とはいえ、全体をそこまで改変することなく、
なんとかストーリーとして着地したものになっている。
それでもテレビ版の齟齬などは修正しきれていないとは思う。
それがゆえに、比較して分ってしまうのだ。

庵野は、花瓶を割って注目を浴びたいだけの子供だったのだと。

あ、ファイアパンチを描いていたやつにも似ている。
狂信的で排他的なファンがつくのも似ている。
ある種の宗教になるのも似ている。

誰もが実力がないから、
破壊的なことで世界を壊して、
夢を見させてくれる者に、何かを託すのかもしれない。
オウムはそのひとつだったよね。
そういえば同時代だ。
そしてオウムのとき以上に格差がひらき、
逆転が不可能になった現代。


令和という時代は、
もはやそんなことをしても、
誰もびっくりしてくれない時代になった。
スーパーの刺身を勝手に喰うとかくらいしか、
びっくりしてくれないのかもしれない。

つまり、花瓶を割る手法は、
もはや種切れだし、飽きられたということだ。

さて。
次の宗教者はどういうやり方をしてくるかな。
物語をネタに使うかな。
西野はどうだろう。
チェンソーマンは読んでないので知らない。
まあ、そもそも若者が少なくなっているから、
彼らを騙すよりも、
年寄を騙したほうが効率がいいんだがね。


庵野は、結果的に騙したわけだが、
騙そうと思ってそうしたわけではない。
ただ注目を浴びたかった子供だったわけだ。

大人である貞本が、それをなんとか着地させたのが、
貞本版であると、
やっと分った。

分ったからといって、
じゃあエヴァンゲリオンが、
とても面白い話ではないのが、
残念だな。

ほんとに、幻魔大戦とメタ構造が似ている。
posted by おおおかとしひこ at 01:04| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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