エヴァンゲリオン登場後、
セカイ系が流行った。
内向的な語りが多く、
世界という大きなスケールと、自分たちの周り
(恋人、友達、親など)という身近な世界だけが存在して、
間のレイヤーがないもので、
なのに世界を救うとか、世界が滅亡するとかが主題になるものである。
元祖は最終兵器彼女だと言われている。
で、それと宗教はかなり類似性があるなあという話。
宗教といっても、全ての宗教かはわからない。
エヴァンゲリオンがネタとして用いた、
キリスト教をメインとして考えよう。
実際、エヴァがキリスト教に深い意味を重ねているとは思えない。
ハッタリのためのもので、深い理解に基づき、
暗喩として使っていたわけではないと考えられる。
使徒、天使の名、
死海文書、セフィロトの樹(もしくはセフィロトの径)、
アダム、リリス、
ロンギヌスの槍、
などがネーミングネタやおしゃれグッズとして使われているだけにすぎず、
なんだか意味ありげに深く見せているに過ぎない。
これらを、
敵、敵何番、
ゼーレのシナリオ、貼り付けのフォーメーション、
巨大先住民1、巨大先住民2、
貼り付け槍、
などのように作中の役割のみで呼ぶと、
化けの皮がはがれることがよく分る。
キリスト教は関係ない。
権威づけるものでしかなかったわけだ。
つまりエヴァとキリスト教は、分離できる。
ところで、キリスト教単独で考えると、
キリスト教ってセカイ系じゃね?というのが本題。
だって、
神と自分の問題を考えるわけだからね。
家族や身近な人と、神がいて、
そこが世界の全てであるように世界観が出来ているよね。
敵は基本いない。いたとしても試練として殲滅するか、
敵すらも愛して身内にするかの二択だ。
つまり、狭い身内と世界と神と自分という、
セカイ系と非常に近い世界認識をしている。
(これが滅亡するしないのをすぐ言い出すのが新興宗教だけど、
そもそも仏教だって末法いうてたしな)
古代に遡ると、
キリスト教のベースになっているのは、
ユダヤ教の時代の世界観だから、
民族や部族と神、のような前近代的な関係性だったと考えられる。
人権とか法治国家とかが発明される前の、
部族単位で土地争いをしていたころの人類の形だ。
この時は、
世界とは部族のことであり、
神と部族が一体となっていて、
異なる神を抱く敵民族が色んなところにいただろう。
だが現代日本ではそうではない。
敵民族はいないし、地球はつながり、
世界はひとつに統一されているように思われる。
で、
現代日本にキリスト教的セカイ系を持ってくると、
急に「日本のコミュニティの狭さ」が露呈するのでは?
と思うわけだ。
キリスト教にとってのセカイ、コミュニティは、
教会に集まるすべてのキリスト教徒だ。
村全体、地域社会全体の話である。
アメリカなら国教レベルだから、国家全体が、
セカイだと言えようか。
ところが日本人はそうではない。
コミュニティは、
クラスで仲がいい人数人とか、恋人とか、好きな人とか、親とか、
全部で合わせてせいぜい10人といったところだろうか。
アメリカのセカイが数十から国家レベルなのに比べて、
日本のセカイは狭い。
かつて日本のセカイは世間であった。
それが大分崩壊して、
セカイは狭くなった。
「身近な人」と、「その他のたくさんすれ違うだけの群れ」のように、
セカイは分離してしまった。
日本のセカイ系の正体は、
身近な人しか世界にいなくて、
その他大勢はただのエキストラとしてしか、
認識していない、
その世界認識の狭さにあるのではないかと思う。
エヴァでは、
せっかく世界としてクラスが用意されていたが、
教師もクラスメートも立ってこず、
背景扱いであった。
鈴原の死後はクラスにすら行っていない。
シンジにとっての世界は、
ミサト、ゲンドウ、レイ、アスカだけにすぎない。
他に人はいるが、あくまでNPCの背景だ。
まあコミュ障だから世界が狭いのだが、
これが全知全能という神を得る、
宗教的な感じに近いなあ、
と思ってみていた。
本来キリスト教の世界は部族全体だが、
現代日本がキリスト教を扱うと、
コミュニティの狭さからセカイ系になる、
という趣旨である。
そういえばカルト宗教は似たようなもので、
宗教団体がせまいコミュニティで、神がいて、
世界全体の破滅を阻止したり実行したりするわけだね。
とても似ている。
こうした、
本来の原始的な部族をまとめる宗教から、
孤立したコミュニティで信仰される、
尖った宗教とに、
宗教は分離していて、
後者がセカイ系と呼ばれているような気がした。
登場人物がごく少なく、
その他の人はいてもNPCの背景で、
神と自分だけが存在していて、
身近なわずかの人だけがいて、
広い世界が滅亡したり救われたりすることだけを考えている感じ。
だから自我の境界は世界と同一になってしまう。
それが世界だからね。
コミュニティの喪失によって、
世界の認識が、世界と身近な人と自分に、
矮小化、先鋭化してしまったのが、
宗教とセカイ系の共通点であると言えるだろうか。
これは、オウム分析でもあったことかもしれないが、
よくしらないので、改めて整理してみた感じだ。
エヴァ以後、セカイ系はどうなったか?
ツイッターに吸収されたのではないか?
繋がりなどなく、
身近な人しかいなかった世界が、
身近な人すら消失して、
SNSでつながるだけのゆるいつながり、
すなわちクラスタになってしまったのでは。
つまり、人類補完計画は、
クラスタ単位で成功しているのではないかね。
もともと、宗教というものは、
部族単位をまとめて、
部族をひとつの人格に仕立て上げる、
人類補完計画の道具だっただろう。
近代になって人権を確立して、それぞればらばらに独立して、
コミュニティが失われ、
孤立してしまった人類は、
クラスタ単位で神を抱き、
再集合したのだろうか。
自我を確立させることがよいことなのか、
それともクラスタや部族単位で人格を共有するのがよいことなのか、
答えはまだ出ていない。
確立した自我同士は、
寛容がない場合、激しく憎みあい、差別することになる。
人類ですら決着がついていない問題を、
たかが一宗教や一物語が解決できるとは思えない。
物語が決着させられるのは、
個人のストーリーラインにすぎず、
個人の判断や行動にすぎない。
シンジは世界を救ったかもしれないが、
個人としての物語はなかった。
その空虚が、エヴァの物語としての弱さだろう。
しかしそうした空虚な人がたくさんいて、
コミュニティがないセカイ系の人がたくさんいたことは、
あの時代事実であり、
それらが集まる宗教となったことは事実だ。
彼らは庵野教の信者となり、
クラスタという補完された存在になったのだろう。
それが終わったとき、
それぞれに散っていくだけになり、
それぞれが個人の物語の続きをするしかない。
ていうか、
セカイ系は狭い話しかないからつまらないんだよね。
身近な人間との話と、親との話と、世界の滅亡しかない。
せいぜいトラウマを解消しておしまいとかその程度。
その狭さのからくりに皆気づき、
ブームは終わったのだろうな。
分断や対立を抱えた今の世界のほうが、
よほど複雑でややこしく、
セカイ系の単純さとは相いれないものになってきたわけだ。
2021年08月26日
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