「今までのことはすべてこの為だった」
ということが見事に腹に落ちることだと思う。
オチを、単純に最後に笑うこととか、
最後にどんでん返しがあってびっくりすることとかだと思っていると、
間違いだと思う。
最後に笑うのは、
「なるほど、これまでのことはすべてこの笑いに集約するためにあったのだ」
という「集約」があって初めてオチだ。
落語の「まんじゅうこわい」のオチ、
「こんどはお茶がこわい」は、
はじめに「怖いものなどない、という男がいましてね」
という伏線があるから、オチになるのだ。
「怖いものはない。だから怖いと嘘をついて、
欲望のままに要求する人間が一番怖いのだ」
まで言っているかどうかはおいといて、
そういう構造になっているわけだ。
どんでん返しで終わるパターンにしても、
ビックリ仰天、で終わるわけではなく、
「人間とはこのようなものである」というために、
最初からオチまで構造が組まれていたのか、
とならなければ、
オチの資格はないと思う。
ただ、最初から展開して、
ただ、解決して、
ただ、最後に笑うかびっくりするか泣くかして、
だと、オチにはならない。
「なるほど、最初から最後を言う為につくっていたのだな」という納得がオチに必要だ。
それはつまり、内容と構造だということだ。
単に台詞一個で回収できるものではないと思う。
オチの研究は大変難しい。
オチに至る構造を明らかにしないと無理で、
この構造はよいとか、この構造は悪いとか、
比較するためには、複数のオチの構造を研究する必要がある。
この場でいろいろと論じたくても、
具体をぱっと思いつかないので、なんとも言えないところだ。
最近見た中でいうと、「由宇子の天秤」では、
オチがオチになっていなかった。
ネタバレを避けていうと、ある効果音で終わるのだが、
それが「これまであったことをすべてまとめる、
綺麗なオチ」にはなっていない。
なっていないことこそが現実的なのだ、
ということは言えるし、
その音はこれまで最初のほうから出てきたものだから、
伏線が回収されたような気にはなる。
だが、「それが結論」にはなっていない。
とてもモヤモヤするラストであった。
つまり、オチは、
結論ありきだと思うわけだ。
結論がないものは、オチようがない。
笑ったり、びっくりしたり、ドキドキして終わる、
というのは「サゲ」でしかない。
なんか山があったからサゲとしてふさわしい、
ということでしかない。
そうではなく、オチとは意味の確定のことなのだ。
この意味を言うために、
この構造にしたのか、と理解があって、
はじめてオチになるのである。
もちろん、これは間接話法であり、
結論を直接言うのはバカでもできる。
「間接話法できちんと結論を意味づける」という、
京都人のような高度な技法が、
オチには必要だということだ。
そういう意味では、
見事なオチを最近みていないなあ。
コロナで映画館行っていないことも大きいし、
コロナですっかり現実の感覚が変わってしまったしなあ。
オチをきめよう。
それは、何を結論づけるか決めることだ。
じゃあ、それを言う為に、どういう間接話法が使えるのか、
を考えるべきだ。
つまり、オチはそもそも逆算である。
「このオチでこういうことが言えるから、
こういうストーリーにしよう」でなければならないのだ。
初めから思いついたものを発展させて、
最後に辿りつくパターンでは、
決してオチにはならないだろう。
せいぜいサゲでおしまいだ。
オチは、
一行目から始まっている。
2022年07月27日
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