デジタルは映像に革命を起こしたのか?
CGは革命的であったが、
日本にそれほどの資金はなく、
日本にデジタル映像がもたらした功罪の功のほうは、
制作費が安くなったことだけだ。
そして当たり前だけど、安い予算の映画なんて、
ありがたくもなんともない。
高いものを消費しまくるから面白かったのであって、
なけなしのエンターテイメントが、
そもそも人の心を動かすはずがない。
で、功罪の罪のほうは、
安い仕事が量産されて、
ゴミみたいな仕事が沢山増えたことだ。
たとえば、
ちょっとした編集作業で20万とかが、
とても増えたように思う。
一か月はかからないが、2週間で終わるはずもない。
かけもちしてやっと40万、
かけもちできないなら月収20万になってしまう。
そのちょっとした編集とは、
今ある素材を使って何かするとか、
新撮しないという条件のことだ。
ちょっとしたプレゼン用の素材、
ちょっとした予告編的なもの、
ちょっとした社内ネゴシエーション用の映像、
などがいま莫大に増えているように思う。
ユーチューバー的な映像もそうだね。
レバテックやインディードで、
Premiere、AfterEffectsで検索すると、
山ほどそうしたバイトが見つかる。
相場は20から30といったところか。
新撮なしで、エフェクトだけつくるとか、
あるものを繋いで再構成するとか、
そういうものだ。
新しく内容を考えて、創作するには、
100とか150とか支払われるのに、
そうした案件はめったにない。
「ちょっとした編集で何とか安く済ませたい」
という、デジタルを安く買いたたく傾向があるからだ。
こうして、ちょっとした編集は、
ゴミのように増える。
ゴミといったのは、
「そもそも志が安いから、ゴミのような内容」
ということでもある。
今あるものを再編集して、
というのは志が低い。
新しいことをしようとしていないからだ。
これを、20や30あたりで買いたたき、
次のなにかを得ようとしている人たちが、
やたらと増えたように思う。
このせいで、
ディレクターの仕事が減っている。
新しく何かをつくろうとするよりも、
費用がかからないからだ。
選択肢はふたつ。
150の世界から20に降りて、
ゴミ掃除の仕事をやるか。
150の仕事が来るまで待つか。
デジタルは人を幸せにしたのだろうか?
20のゴミのような仕事ばかりやっていて、
精神はすり減り、才能は蒸発していくだろう。
150の力のある人間が、
20をやるべきではないというのは正論だが、
コロナで確実に150はなくなった。
20で食いつなぐ先に、
希望はあるのだろうか。
出口は見えていない。
こうしたゴミを量産したデジタルは、
ほんとうに人を幸せにしているのか?
つくる喜びなど見いだせない、20万のゴミたちを見てそう思う。
2021年11月02日
この記事へのコメント
コメントを書く