リアリティがないものは、リアリティがあるべきだ。
だけど、そもそも考えてみよう。
フィクションとは、現実にないものを書くことだと。
現実にありそうなことは、
フィクションで扱うべき題材ではない。
明日遅刻しそうとか、
モテないから今日も退屈とか、
友達のくだらない話を聞くだけとか、
そういうものは現実でやっていればよい。
創作というフィクションに出てくるのは、
そうした現実にはないものだ。
幽霊とか、恐竜とか、タイムスリップとかだ。
現実にないから面白いわけで、
現実にあるものを出してもつまらないのである。
だから、そもそもフィクションとは、
リアリティがないものを扱うジャンルである。
まずそれが大前提だと思ったほうがいい。
で、それが「現実にはないもの」だからこそ、
「現実にありそう」を描く必要がある。
現実にはないから意味ないね、
ではなくて、
「それはそこにいそう」とおもえれば、
フィクションは、
それをみている間だけは現実になるのだ。
そもそも映画に出てくるような、魅力的な登場人物が、
現実にいるだろうか?
いないよね。
現実はフィクションよりいくらかしょぼくて、
魅力がない人たちであふれている。
だから、作り事の中の登場人物は、
どこか現実から離れた、魅力があるわけだ。
でも、それが「いない」と思わせてはならない。
「いそう」と思わせなくてはならない。
現実にいないものが、
「そこにはいそう」にならなくてはならない。
リアリティとは、そのための手段、道具だと思うとよい。
風魔の小次郎みたいな、
山猿みたいで、無鉄砲で、
自分のことだけを考えているやつがいたら?
ただいるだけじゃ、リアリティがない。
「いそう」にしなければならない。
周りはどういう扱いをしているか?
またこういうことをやっているから、なんかあったら、きつくお灸をすえる、
という風に反応しているだろう。
半ばあきらめながら、でも対応慣れしているだろう。
それもリアリティだ。
あるいは、本人自身はどう思っているか?
ドラマの小次郎は、
どこか冷めた目線を見せることがある。
ただ無鉄砲で訳が分からない男ではなく、
彼は彼なりにいろんなことを分析していることが描かれ、
それも彼の性格や存在に、
リアリティを持たせるために一役買っている。
なぜかヨシズミとかハンカチ王子とかの、
当時の世相を知っていて、
「今、ここにいそう」ということに一役買っている。
そうしたことを散りばめていくと、
「ああ、この人は、ここの世界にはいるかも知れない」と、
錯覚し始めるようになる。
その錯覚が、リアリティだ。
そのトンデモ忍者の世界に、
普通の常識の女子高生がいたら、
「警察に相談したほうが良いのかしら」と、
これまたリアリティのある判断をすることがある。
こうして、「それがそこにいる感じ」は、
更新されてゆく。
リアリティは、
「リアリティがなければならない」という、
ネガティブチェックではない。
「リアリティがあると、信じられる」という、
ポジティブな要素だと思うとよい。
それは、
現実にないものが、
今その世界にいるとしたらを、
どれだけ面白がれるか、
ということと関係していると思う。
幽霊はいない。
だが物語の世界にはいる。
どういうリアリティで、それを表現するか?
よくあるのが、
「触れたら透けてて、手が通り抜ける」というやつかな。
そこで、「幽霊がいるんだ」という確信になることが、
良くあるよね。
「フィクションでよくあるリアリティ」だから、
それで納得がいきやすいということもあるだろう。
でもそれで足りない、という判断ならば、
新しい幽霊のリアリティを考えてもいいんだぜ。
「ポルターガイストにお茶をだしたら、
コップを掴んだら割れる」でもいいんだよ。
「それがほんとうにそこにいる感じ」が、
創作できればいいんだ。
つまり、リアリティは創作なのだ。
取材をして、リアルを知ることは重要だが、
それは「現実にいるものが、現実にいる感じ」でしかない。
あなたがやるべきことは、
「現実にいないものが、いまここの仮想現実にいる感じ」
を創作することなのだ。
リアリティは、つまり取材では得られない。
あなたが、観客が、それを見て、
「それはそこにいそう」を想像できる創作が、
リアリティだ。
もしあなたの作品が「リアリティがない」
と言われて悩んでいるのだとしたら、
リアルが足りてないのではなく、
「リアリティという創作」がたりてないんだぜ。
2021年11月08日
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