2021年11月02日

私はあなたには反対だが、あなたの意見を尊重する

多様性社会、市民社会の前提にこれがあるべきだ。

なぜならこの考え方は、人類の黒歴史の反省だからだ。
・考えの異なる者は滅ぼしても良い
・劣った者は滅ぼしても良い
・劣った者、敵は、徹底的に管理下に置き、人権を剥奪せよ
という考え方が、
人類をいかに悲劇に陥れたか、
人類は再学習していない。

「京王ジョーカー」と既に渾名がついてしまった男の事件で、
人々の反応が中世のようである。

ジョーカーの事件で思ったけど無敵の人を生み出さない社会ってどうすりゃいいの?
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/5856056.html


この背景にある考え方は、
「平等とはいうものの、
実際に今日本は格差社会ではないか」
という疑念があると思う。

平等は理念に過ぎず、
実態が乖離しまくっていることで、
人々は理念を疑い、自分の判断を優先するのだろう。

それは獣に戻ることを意味すると思う。

ちょっとなにかあったら袋叩きにする現象、
降板して立ち直れなくなるまで続ける正義マン現象は、
こうした不満からの獣への回帰に、
僕には見えている。

無敵の人をどう抑止するかは、
セーフティネットを敷き、
孤立せずに群れに戻すことだとは思うが、
一方で、
「無能の人も、上級の人も、
等しく生きる権利がある」という、
理念的平等の態度を崩さないことだ。

真の平等とは、
無能で無知な人にも同じ権利を与えることで、
敵にも同じ権利を与えることで、
自分と考え方や習慣の異なる、虫唾が走るような奴にも、
同じ権利を与えることである。

そのことで、平等という前提が保たれる。

平等は、皆が同じになることではない。
すべての人に同じ権利を与えることだ。

それを駆使しても、使わなくても、失敗しても自由だと、
保証することである。

たとえば投票には棄権の権利がある。
そのことで国が傾くこととは関係がない。
その因果応報は仏教の考え方にすぎず、
平等と自由と権利の考え方とは別の因果である。

こうした、
基本的な思想を分離して再把握している人が、
最近減って来ている気がする。

いや、そうじゃない愚か者の、
声が拡声器を得ただけかもしれないが。



ということで、
ジョーカーには人を殺す権利があり、
我々にもジョーカーを殺す権利がある。
ジョーカーがナイフを向けるなら、
我々には正当防衛の権利がある。
ジョーカーがナイフを向けないならば、
いかに彼がキモくても、
我々は彼と共に社会を営む。
それが自由平等な社会の前提だ。

そうした相対性を持たない人がとても増えた。
周囲2メートルしか見えていないのだろう。

無敵の人はこれから増えるだろう。
視野が狭く、今ある社会しか見えない、
視力の限界がある人が増えるだろう。
その時にも、理想という星空を、我々は見なければならない。


カッターナイフ一本くらいなら、
一応初段なので止められると思うけど、
ジョーカーが持っていたのは30センチくらいある牛刀だったという。
蹴りより長いし、カバンで止められるとも思えないし、
飛び道具ないなら俺も逃げるかもなあ。
野球部が何かを投げられれば勝てたのかしら。
剣道部が傘持ってても一対一じゃ怖いよな。

正義の徒が5人いれば止められただろう。
でも5人いない時の無敵の人は、
無敵の人だろうな。

結論: 正義なき力は暴力なり。力なき正義は無力なり。
みんな武道をやろう。



物語とは、
このように「異なる人同士の争い」を描くものだ。
人は異なるから争う。
同じになってしまうのが人類補完計画。
異なるまま平等だとしようとしたのが人類の歴史。
posted by おおおかとしひこ at 12:20| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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