qwertyの速度を決めるのは、
実は右小指の使い方ではないか、という仮説。
qwertyローマ字では、
右小指は使わない。
正確にいうと、
頻度の低いPとーは右小指担当だが、
これは薬指で代用できる。
同様に、
実文章でよく使う、エンターやBSも薬指で代用できる。
僕の経験によれば、
エンターやBSは8%程度の出現率で、
16%分を右小指で打っていては小指が壊れる。
だから薬指や中指、
あるいは中指薬指の二本で取る人もいるくらい。
ということは、
その気になれば、右小指は不使用にできる。
その代わり何に使うかというと、
スタビライザーだと思った。
qwertyタイパーは、特徴的な右小指の張り方をする。
自作キーボードでよく試打動画をあげているサリチル酸さんも、
曲がった右小指状態で打ってるし、
多くのタイパーは、
曲げた小指かピンと伸ばした小指かだ。
空中で動かしてみるとわかるけど、
小指をリラックスしたままで他の指を打つよりも、
小指に力を入れて他の指を動かす方が、
動かしやすい。
これは日本刀の使い方(手の内)とまったく同じだ。
構える時、剣は小指で持ち、他の指では持たない。
「小指で締める」などという。
で、操作する時だけ他の指を締めて、
受けたり切ったりする。
小指をピンと伸ばした状態では伸筋が、
曲げた状態では屈筋が、使いやすくなると思う。
伸筋は撫で打ち、屈筋は突き刺し打ちになると思う。
また、小指を上げることで、
内側へのロールがしやすくなる。
qwertyではNやYが多用されるため、
そのロールがしやすいだろう。
右小指は、右手だけに影響するか?
人間の体は左右で情報を交換している。
やってみると分かるけど、
右小指を固めると、
左小指が軽く固まる。
これによって、最頻出のAに対して、
左小指を突き刺しやすくなるはずだ。
おそらく、
qwertyを打ち続けて「疲れない」という人は、
この右小指が出来てるのでは?
と想像する。
僕は出来てなくて、めっちゃ疲れるからだ。
Aを、リラックスした小指で打てば、
てきめんに痛くなる。
リラックスした手や指で、
薙刀式の1.7倍も打つ気がしない。
逆に薙刀式は、「リラックスした手で書く」
ことを目標として、
なるべく最小の力しか使わないことを想定した配列だ。
その打ち方のスタイルと、
右小指を締めてロールや左小指にも対応した、
qwertyタイパー独特のフォームでは、
あまりにも手の使い方が違うなあと思った。
qwertyローマ字って、
「書くぞ」って気合がいる配列に思える。
それは無意識に、指を固める必要があるからかも知れない。
文章を書くコツは、
気合を入れて書くことではない。
最初の数文を書くことだ。
最初の数文を書くと、文は次の文を呼ぶ。
そうして連なった思考になってゆく。
だからその最初の数文を、
なるべく抵抗のハードルがないように書けることが、
文章を書くコツだったりする。
日本人の国語教育は間違っていて、
「原稿用紙を使わせる」のは、
心理的抵抗を上げるだけの無駄なものだ。
白紙をわたして、自由に書きなさい、
が正しい文章教育だと思う。
すなわち「下書きをさせる」教育をするべきだと考える。
思考というものはそもそも一本道では進まなくて、
それを一本道に成形したものを文章という。
「適当に思ったことを話して、
適当に繋いで、時間が来たらおしまい」ではない。
「あることを言うために、
論理的構造を持ち(意図的に脱線も含めてもよい)、
最も無駄のない、結論に落とし込むための一本道」
であるべきだ。
それを「下書き」で学ぶべきだ。
原稿用紙を使うのはそのあとで、
「その思考を、他人に見せる行為」として、
文章を書くべきなのだ。
つまり、文章を書く行為は二段階ある。
自分に向けて書くことと、
他人に向けて書くことだ。
これをデジタルでやってしまうと、
下書きを清書にコピペしてしまい、
手書きの魔法を経験できない。
下書きから清書に至る時、
手書きだと、勝手に「自分向けの文章を、
他人が見て分かりやすいように変形する」
をやってのける。
白紙から他人に向けて書くからである。
相手が他人だと意識しながらだと、
自分向けの文章を、他人向けに翻訳しながら、
書き直すことが同時進行で出来るのだ。
これが「文章を書く」ことの本質だと僕は考えていて、
だから僕は本気の時は手書きしか使わない。
デジタルによる執筆は、この本質を歪める。
初手から最終稿と同じフォーマットで書かざるを得ないからだ。
SNSでの発言は、
他人に向けた文章というよりも、
ひとりごと、自分に向けた文章だ。
それはいきなり最終フォーマットで書く、
デジタル道具のせいではないかと僕は思う。
僕はそれを避けるために、
初手iTextで教科書体、
清書TATEditorで游明朝体、
のように、エディタとフォントを変えてまで、
下書きと清書を分けていたりする。
もちろん、ネットに垂れ流す駄文の数々は、
一気に書いて多少直しておしまいだけど。
で、
qwertyローマ字は、
この初動に気合がいる配列だと僕は考えている。
打鍵の組み立てが必要な感じがあるからだ。
(タイパーの間でも、初動のレイテンシーをどう考えるか、
よく話題になる)
ある種バッファにためこめないと打てない配列なのだろう。
それをスムーズに捌くための、
右小指の締めなのではないかと僕は思った。
薙刀式は、小指を締めない。
バッファなしで、
脳と文字を直結するためだ。
IMEすらスルーする感じ。
漢字変換はほぼ行けるだろうと踏んで、
ノールルック確定するスタイルだからね。
(誤変換したら戻って再変換することが、
薙刀式の編集モードなら楽勝)
qwertyは、動き始めるまで時間がかかり、
動き始めたら止まりにくい、
はずみ車のような印象を受ける。
単語を次々と打っていくタイピングゲームでは、
qwertyのその性質が合うのではないか?
だから僕はqwertyを否定する。
文章を書くのにむいてない。
文章を書くのに気合がいる道具は、
文章の質を低下させる。
タイパーはタイピング特化趣味人間だから、
文章の質を問わないとは思うが、
じゃなんのためのタイピングやねん、
って本末転倒感が。
力のこもった右小指を見ながら、
こんな仮説を考えた。
この打鍵フォームは、
タイピングゲーム特化のフォームで、
文章を書くフォームではないなあと。
しかしqwertyを打つには前者のフォームが有利なのだろう。
だとしたら、僕はやっぱりqwertyを愛せない。
2021年11月04日
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