2021年11月13日

書き終えないと分からないこと

僕はなんでもいいから、
とにかく終わらせらという。
途中で出来なかったものは、なかったものと同じだ。
むしろ、
「俺は才能があるかも」と勘違いさせるだけ害悪だ。

才能とは、書き終える才能の上にしかない。

では、書き終えると何がわかるのだろう?
途中で終わったことしかない人が、
味わったことのない感覚とは?


まず気持ちよさがある。
これは書き終えた者にしかわからない。
自分が一段成長して、
次のステージに行ったような感覚すらある。
沢山のものを書き終えた人は、
経験値を沢山積んだ賢者のようになる。

むしろ、
「あの経験を超えるものを作りたい」と、
意欲はどんどん湧くようになるぞ。


そして、
部分と全体の関係が掴めるようになる。

書き終えたことのない者は、
一幕と二幕と三幕の、理想の関係がわからないだろう。
全体のストーリーと、
第一ターニングポイントと、
第二ターニングポイントの関係がわからないだろう。
だから逆算して仕込むことの意味もわからないだろう。

あるいは、
伏線と解消の関係もわからないだろう。
最後の最後に、「あれが伏線だったのかー!」
と参った、となる、伏線の仕込み方も分からないだろう。

ラストシーンがいかに物語にとって重要かも分からないだろう。
ラストシーンからどうやって逆算するかも分からないだろう。

主人公とサブ人物の、果たすべき役割と、
全体との関係も分からないだろう。

テーマとプロットの関係も、
書き終えてようやく分かるものだ。


そして、
さらに大事なのだが、
最後まで書くと「客観性を持てる」ということだ。

もう少し噛み砕いていうと、
「あそこはツッコミが入るだろうな」
と予測できるということだ。

ツッコミAを想定して、
Bを仕込んでおくことは、
リライトの時に出来るだろう。
なんなら、最初からBを思いつくことすら出来るかもだ。

ピンポイントでなくて線のこともある。
たとえば、
作戦Pの行動よりも、Qの方が合理的では?と、
自分自身で気づくかもしれない。
そうしたら、
PをQに書き直すもよし、
QではダメでPでしか出来ない理由を、
付け足すもよしだ。


主人公以外の視点からも、俯瞰しやすくなる。
ライバルから見たこの話はなんだったのか、
ヒロインから見たこの話はなんだったのか、
脇役Aから見たこの話は。

色んな人に見せた時の、
シミュレーションが出来るようになる。

好みが合う人に見せた時の反応は当然だけど、
全く違う人、仲が悪い人に見せた時の反応まで、
予想しやすくなる。
完結していることで、
パッケージとして意識できるからね。

そうしたら、
自分や同好の士は好きではないが、
別の趣向の人が好む要素を、
上手に入れ込むことを考えてもいいかもしれない。

つまり、
主観的好み全開から、
視線を高く持てるようになる。



こうしたことは、
砂被りの席からは見えない。

書き終えて、少し離れないとわからない。

絵を描く時に、
デッサンの狂いは、離れて見ないと分からないことがある。
陰影の配分や、色の配分、光線の向きなどもそうだ。

そのようになるには、
「全部が見えた状態」が必要だ。

ストーリーで言えば、
それは「第一稿でいいから、
最後まで書き終えた状態」ということだ。


すぐれた書き手は、
多少まずくてもいいから、最後まで書き終えることを優先する。
なるべく早く客観的な視座に辿り着くためだ。
そこでまずければリライトするためである。

ダメな書き手は、
なかなか最後まで書けず、
ラストシーンは締切ギリギリになってしまう。

そうして、デッサンが狂ったような、
ダメなストーリーとして納品する。

それでは書き手として未熟である。

まずは完結させる。
直しが7割。
そういうスケジュール配分で、
全体を眺めては、部分に戻るを繰り返すべきだ。


作文の授業で教えてないのはここなんだよね。

最後まで書いたらおしまい、しか教えていない。
そんなのプロの仕事では、
2割くらいなもんだ。

あとの書き直しで、
どこまで完璧にするかなんだよな。

それを経験してないから、
最後まで書いてないやつは、童貞以下だぜ。
posted by おおおかとしひこ at 00:13| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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