僕はなんでもいいから、
とにかく終わらせらという。
途中で出来なかったものは、なかったものと同じだ。
むしろ、
「俺は才能があるかも」と勘違いさせるだけ害悪だ。
才能とは、書き終える才能の上にしかない。
では、書き終えると何がわかるのだろう?
途中で終わったことしかない人が、
味わったことのない感覚とは?
まず気持ちよさがある。
これは書き終えた者にしかわからない。
自分が一段成長して、
次のステージに行ったような感覚すらある。
沢山のものを書き終えた人は、
経験値を沢山積んだ賢者のようになる。
むしろ、
「あの経験を超えるものを作りたい」と、
意欲はどんどん湧くようになるぞ。
そして、
部分と全体の関係が掴めるようになる。
書き終えたことのない者は、
一幕と二幕と三幕の、理想の関係がわからないだろう。
全体のストーリーと、
第一ターニングポイントと、
第二ターニングポイントの関係がわからないだろう。
だから逆算して仕込むことの意味もわからないだろう。
あるいは、
伏線と解消の関係もわからないだろう。
最後の最後に、「あれが伏線だったのかー!」
と参った、となる、伏線の仕込み方も分からないだろう。
ラストシーンがいかに物語にとって重要かも分からないだろう。
ラストシーンからどうやって逆算するかも分からないだろう。
主人公とサブ人物の、果たすべき役割と、
全体との関係も分からないだろう。
テーマとプロットの関係も、
書き終えてようやく分かるものだ。
そして、
さらに大事なのだが、
最後まで書くと「客観性を持てる」ということだ。
もう少し噛み砕いていうと、
「あそこはツッコミが入るだろうな」
と予測できるということだ。
ツッコミAを想定して、
Bを仕込んでおくことは、
リライトの時に出来るだろう。
なんなら、最初からBを思いつくことすら出来るかもだ。
ピンポイントでなくて線のこともある。
たとえば、
作戦Pの行動よりも、Qの方が合理的では?と、
自分自身で気づくかもしれない。
そうしたら、
PをQに書き直すもよし、
QではダメでPでしか出来ない理由を、
付け足すもよしだ。
主人公以外の視点からも、俯瞰しやすくなる。
ライバルから見たこの話はなんだったのか、
ヒロインから見たこの話はなんだったのか、
脇役Aから見たこの話は。
色んな人に見せた時の、
シミュレーションが出来るようになる。
好みが合う人に見せた時の反応は当然だけど、
全く違う人、仲が悪い人に見せた時の反応まで、
予想しやすくなる。
完結していることで、
パッケージとして意識できるからね。
そうしたら、
自分や同好の士は好きではないが、
別の趣向の人が好む要素を、
上手に入れ込むことを考えてもいいかもしれない。
つまり、
主観的好み全開から、
視線を高く持てるようになる。
こうしたことは、
砂被りの席からは見えない。
書き終えて、少し離れないとわからない。
絵を描く時に、
デッサンの狂いは、離れて見ないと分からないことがある。
陰影の配分や、色の配分、光線の向きなどもそうだ。
そのようになるには、
「全部が見えた状態」が必要だ。
ストーリーで言えば、
それは「第一稿でいいから、
最後まで書き終えた状態」ということだ。
すぐれた書き手は、
多少まずくてもいいから、最後まで書き終えることを優先する。
なるべく早く客観的な視座に辿り着くためだ。
そこでまずければリライトするためである。
ダメな書き手は、
なかなか最後まで書けず、
ラストシーンは締切ギリギリになってしまう。
そうして、デッサンが狂ったような、
ダメなストーリーとして納品する。
それでは書き手として未熟である。
まずは完結させる。
直しが7割。
そういうスケジュール配分で、
全体を眺めては、部分に戻るを繰り返すべきだ。
作文の授業で教えてないのはここなんだよね。
最後まで書いたらおしまい、しか教えていない。
そんなのプロの仕事では、
2割くらいなもんだ。
あとの書き直しで、
どこまで完璧にするかなんだよな。
それを経験してないから、
最後まで書いてないやつは、童貞以下だぜ。
2021年11月13日
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