2021年11月18日

暇つぶし

なぜ物語を見るのか。
暇つぶしという人がいる。
他の暇つぶしと何が違うのか。


暇つぶしに、他の人と会う人がいる。
それが出来ないときに、
フィクションの世界に浸ることが多いのだろう。

ドキュメンタリーを見ないで、
政治や科学の発展のことを考えないで、
フィクションである物語を見る理由はなんだろう。

逃避だからではないか。

友達と会えないことを忘れるために、
現実の何かはどうでもいいときに、
現実を一時ログアウトするために、
物語というフィクションがあるのではないか。

寝てもいいんだろうが、
寝て酒を飲んだって、
現状維持しかない。

ということは、フィクションへの逃避は、
行って戻ってきたら、
ただ元に戻るものではいけないということだ。
寝ることや、酒と違うものであることが必要だ。


主人公の変化(または成長)が何故必要か、
ということの答えがこれである。

「ただ時間を潰してしまった」ということに、
人は耐えられない。
「今見たものは、実に有意義なものであった。
寂しくないぞ、辛くないぞ。
なぜなら、有意義な時間を過ごしたからである」
と満足したいがために、
フィクションという物語を見るのである。


フィクションの、何が有意義だろうか?

雑学を得ることか。
異世界を堪能することか。
そうではない。
「人生の可能性を知ること」ではないだろうか。

こういう人生を生きた人がいた、
と知ることで、
人生にはこのような価値がある、
人生にはこうしたらこうなるという疑似体験を積む、
人生はこのような可能性がある、
ということを、
「新しく」学ぶことが、
有意義なことではないだろうか。


それは、小説だろうが、漫画だろうが、
演劇だろうが、映画だろうが、ドラマだろうが、
ネトフリだろうが、ゲームであろうが、
なんでも同じかもしれない。

あとはどこを強調するか、ということだろうか。

小説ならば想像力を使うこと、
漫画ならば漫画っぽい展開やキャラを欲すること、
演劇ならば「ほんとうに役者がそこで演じていること」を欲すること、
ドラマは長い長い冒険に出る感じ、
ゲームはインタラクティブなこと。

映画はなんだろう。
その役者がほんとうにやっていること?
とんでもない世界観を見ること?
短くて切れのあるストーリー?

たぶん、その全部かも知れない。

他の娯楽をしないで、
物語という娯楽を選ぶ理由はなんだろう。
自分のケースで考えてもいいし、
一般的にどうだろうか、と考えてもいいし、
今こういう人が増えているのではないか、
と考えてもいいと思う。


先日カフェで、
手芸しているおばちゃんたちの会話を聞いていたら、
「家で母を介護しているのだが、
母が夜中によく起きてトイレへ連れていくが、
そのあとなかなか寝付けないことがある。
だからネトフリを契約してスマホで見ることにした」
という話が出てきた。

そういった需要は、
なかなか想像できていないよね。

老いた母が眠ってもまだ起きている夜中に、
布団の中で、スマホでドラマを見る気持ちってどういうことだろうか。
現実とは一切関係ないものを見たいだろうね。

とりあえず「愛の不時着」は面白かったらしい。

現実離れした韓国ドラマが人気なのは、
こうした需要に支えられている可能性がある。
ジャニーズも現実離れしているから、人気なのだろうね。
SNSでリアルの姿が分るようになって、
どんどん幻想が崩れてきたのはよくわかる。

現実離れしたいのだ。


「あーあ、二時間現実逃避しちゃった。
沢山笑ったり、沢山泣いたりしたけど、
結局なんにもなかったな。むなしい」
にならないものが、
求められていると思うよ。

それはなんだろう。
テーマと、その妥当性だよね。
posted by おおおかとしひこ at 00:15| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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