なぜ物語を見るのか。
暇つぶしという人がいる。
他の暇つぶしと何が違うのか。
暇つぶしに、他の人と会う人がいる。
それが出来ないときに、
フィクションの世界に浸ることが多いのだろう。
ドキュメンタリーを見ないで、
政治や科学の発展のことを考えないで、
フィクションである物語を見る理由はなんだろう。
逃避だからではないか。
友達と会えないことを忘れるために、
現実の何かはどうでもいいときに、
現実を一時ログアウトするために、
物語というフィクションがあるのではないか。
寝てもいいんだろうが、
寝て酒を飲んだって、
現状維持しかない。
ということは、フィクションへの逃避は、
行って戻ってきたら、
ただ元に戻るものではいけないということだ。
寝ることや、酒と違うものであることが必要だ。
主人公の変化(または成長)が何故必要か、
ということの答えがこれである。
「ただ時間を潰してしまった」ということに、
人は耐えられない。
「今見たものは、実に有意義なものであった。
寂しくないぞ、辛くないぞ。
なぜなら、有意義な時間を過ごしたからである」
と満足したいがために、
フィクションという物語を見るのである。
フィクションの、何が有意義だろうか?
雑学を得ることか。
異世界を堪能することか。
そうではない。
「人生の可能性を知ること」ではないだろうか。
こういう人生を生きた人がいた、
と知ることで、
人生にはこのような価値がある、
人生にはこうしたらこうなるという疑似体験を積む、
人生はこのような可能性がある、
ということを、
「新しく」学ぶことが、
有意義なことではないだろうか。
それは、小説だろうが、漫画だろうが、
演劇だろうが、映画だろうが、ドラマだろうが、
ネトフリだろうが、ゲームであろうが、
なんでも同じかもしれない。
あとはどこを強調するか、ということだろうか。
小説ならば想像力を使うこと、
漫画ならば漫画っぽい展開やキャラを欲すること、
演劇ならば「ほんとうに役者がそこで演じていること」を欲すること、
ドラマは長い長い冒険に出る感じ、
ゲームはインタラクティブなこと。
映画はなんだろう。
その役者がほんとうにやっていること?
とんでもない世界観を見ること?
短くて切れのあるストーリー?
たぶん、その全部かも知れない。
他の娯楽をしないで、
物語という娯楽を選ぶ理由はなんだろう。
自分のケースで考えてもいいし、
一般的にどうだろうか、と考えてもいいし、
今こういう人が増えているのではないか、
と考えてもいいと思う。
先日カフェで、
手芸しているおばちゃんたちの会話を聞いていたら、
「家で母を介護しているのだが、
母が夜中によく起きてトイレへ連れていくが、
そのあとなかなか寝付けないことがある。
だからネトフリを契約してスマホで見ることにした」
という話が出てきた。
そういった需要は、
なかなか想像できていないよね。
老いた母が眠ってもまだ起きている夜中に、
布団の中で、スマホでドラマを見る気持ちってどういうことだろうか。
現実とは一切関係ないものを見たいだろうね。
とりあえず「愛の不時着」は面白かったらしい。
現実離れした韓国ドラマが人気なのは、
こうした需要に支えられている可能性がある。
ジャニーズも現実離れしているから、人気なのだろうね。
SNSでリアルの姿が分るようになって、
どんどん幻想が崩れてきたのはよくわかる。
現実離れしたいのだ。
「あーあ、二時間現実逃避しちゃった。
沢山笑ったり、沢山泣いたりしたけど、
結局なんにもなかったな。むなしい」
にならないものが、
求められていると思うよ。
それはなんだろう。
テーマと、その妥当性だよね。
2021年11月18日
この記事へのコメント
コメントを書く