緊急事態なんだ。とにかく緊急でやばいんだ。
何とかしなきゃ。出来ることをやるんだ。
でも自分一人じゃなんともならない。
どうすればいい?
普段仲の悪い人でも、一縷の望みがあるなら頼むか?
誰でもいいから協力してくれ、
いま争ってる場合じゃない、
この大事態に、みんなが協力しないと、
ここがなくなるぞ!
ストーリーというのは、
結局はこれが前提にあるのだと思う。
逆に、
緊急事態がうまく作れない話は、
見てて乗れないのではないか。
ゆるい日常系では、
緊急事態は起こらない。
私たちの暮らす生活基盤は、
揺るがないことを前提とした、
「安心」がベースになっている。
会社は潰れないし、リストラもされないし、
日本は未来まで続き、
夫婦や恋人たちは浮気しないし、
裏切りやいじめはない。
やさしいせかい、と時々言われるそれは、
つまりは安心こそがベースになってるわけだ。
物語はそうではない。
常に緊急事態である。
つまり、不安がベースである。
私たちが暮らす暮らしが、
根底からひっくり返りそうになったり、
私たちが安心と思っていたものが、
崖の上で危うくバランスを取っていたことがわかったり、
あまつさえそれは失われ、
もう二度と手に入らない安心だったりする。
つまり、
物語の駆動力は不安であり、
危機であり、安全安心への希求である。
あなたのストーリーは、
それだけの不安があるだろうか?
ハリウッド映画では、
人類滅亡の危機が常に起こる。
宇宙人や異次元人が攻めてきたり、
パンデミックが起こったり、
戦争で祖国が消えそうになったり、
部族に侵略されたりする。
「我々」の単位が、
地球、国家、地方、学区、一族、家族、個人間、
のどれになるかで、
危機のスケールが決まり、
その緊急事態の度合いが、そのストーリーの駆動力だ。
宇宙人が攻めてくる危機と、
難病で余命一ヶ月になった危機は、
同等の緊急事態である。
その「我々」が脅かされる度合いにおいてだ。
スケールの大きさとは、
つまりは、危機に陥った「我々の人数」に他ならない。
この部活が廃部になっちゃう!
という話なら、部活が「我々」で、
家族解体の危機の話は、家族が「我々」で、
難病ものは、それを世話する恋人やパートナーまで、
「我々」である。
中世の「我々」は、国家や村単位であっただろう。
いずれにせよ、
その我々の規模が緊急事態に陥り、
強い不安があり、
そのために誰が何をするかが物語である。
「我々」は「個人」でも大丈夫か?
僕はダメだと思う。
一人だけ危機に陥ってるものは、
ストーリーにならないと思う。
一人暮らしの老人が難病になっても、
ストーリーにはならない。
たとえばその老人が好きな子供がいて、
「二人の関係性の消滅の危機」でないと、
物語は駆動しないと僕は考える。
おじさんがリストラの危機になっても、
ストーリーにならない。
おじさんに家族がいて、家族の解体の危機になるから、
家族がどう生きるかというストーリーになる。
大抵の緊急事態は、
たくさんの人によって解決するからで、
そこにドラマがある。
一人の中の緊急事態は、
「思い直すこと」「考えを変えること」で、
解決したりする。
「難病で余命いくばく」を個人の中で解決するには、
思い直すこと、宗教による救済しかない。
我々の中で解決するならば、
我々の中でそのような人がどのように価値があったか定めることを、
することがドラマだろう。
個人の危機はドラマにならない。
内部のことは映画では描けない。
(だから個人的な宗教の帰依や内部のお話は、
一人称小説でしか書けない可能性が高い。
宗教ものの映画がよくわからなくて詰まらないのはそのせい)
複数人が絡む、「我々の危機」でなければ、
映画的なストーリーにならないのだ。
危機に陥る「我々」とは誰か?
どの範囲からどの範囲か?
そして、各自の抱える事情によって、
危機の種類が違うことが、
個人個人の動機を異なるものにして、
行動や指針が異なり、
揉め合うことになる(コンフリクト)。
最終的にはその揉め事を決着をつけ、
我々の危機は安心安定に戻る。
それが物語の構造だと思う。
冒頭は個人の危機でも構わない。
そのほうが書きやすいからね。
でもその個人の緊急事態は、
それを見逃した我々の緊急事態でもある、
となって、
「我々」の話にならないと、
ストーリーにならないと思う。
その我々とはなにか?
その緊急事態とはなにか?
そうした視点で自分のストーリーを俯瞰しよう。
「我々」をどう動かすかがストーリーで、
「自分とその他」しか見えてないなら、
まだそれはストーリーになってないと思う。
2021年11月26日
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