最大公約数を狙わないこと。
たった一人に届くように書くこと。
映画はマスコミュニケーションである。
なるべく沢山の人に見てもらわなくてはいけない。
だけど、最近セグメント化が進みすぎて、
「全ての人に届けるべきものは、
どのような形をしてるべきか」が、
忘れ去られているような気がする。
「全ての人が納得して、心に届くものは、
最大公約数であるべき」と、
考えがちになっているように思う。
つまり、
多くの人の心の、共通部分を探ろうという方法論だ。
ベン図でいえば、
A and Bの部分、
A and B and Cの部分、
A and B and C and D……と、
共通部分を探れば探るほど、
それは縮んでいく。
最大公約数は、全体より小さい。
つまり、マスを目指せば目指すほど、
やせたものになってしまう。
全員の共通部分なんて、ほとんどなくなっていく。
その作り方では、
単純なもの、単純な感情しかつくれないことになってしまう。
そうではない。
たとえば、
「学活」という習慣がある。
どこの地方だったかな。東海地方かな。忘れた。
学校に20分だか何分だかの時間が毎回あって、
そこでレクリエーションや学級会や、
自習やらの、何かしらの時間に使われていた時間だそうだ。
その地方以外の人には分らないことだから、
「マスに届けるものからは学活の描写は外そう」
という考え方が、
最大公約数を取るやり方である。
これは間違いだ。
なぜなら、
今の説明をすれば、
なんとなくそういう時間があることは分るし、
ホームルームはあったし、
それらがない地方でも、
そういう時間があると楽しみになることくらい、
想像できる。
つまり、人には、
自分が経験したことと近づけて類推する能力があり、
ないものでも想像できる。
最大公約数は、
有るものの共通点になるが、
学活を描くことは、
共通点を見つけることとは違う。
全員の共通点にはならないが、
全員が想像して理解できることになっている。
最大公約数は、全員より必ず小さくなるが、
想像できることは、全員より大きくなる。
コツは、「たった一人に向けて書くこと」だ。
その人が想像して理解できるように書くだけで、
全員が想像して理解できるように書かれているはずである。
なぜなら、人は自分に近い体験の中から取り出して再解釈するからだ。
最大公約数を取るやり方は、
客観的にあるかないかしか議論しない。
それは間違った客観の使い方だろう。
エビデンスがないと何もできない人たちのようだ。
それは科学なら分るが、
我々がやっているのは文学だ。
文学とは、まだないものをつくることだ。
エビデンスは、これまでにあるもののことである。
「誰もにある、エビデンス的な共通点」は、
とても小さく、狭いものにしかならない。
「誰もにある、想像できるもの」ならば、
もっともっと大きなものが書ける。
長男や長女ならば、
幼い弟や妹に、
妖精や妖怪や幽霊などの架空の作り話をして、
彼らの目を輝かせた体験をした人もいるかもしれない。
その時に、
「誰もが分る共通の部分で語ろう」などと思っていなかったはずだ。
弟や妹が、想像して喜ぶことだけに集中していたはずだ。
架空の観客を一人つくる。
その人が想像して、面白いものをつくれ。
他の人には一切届かなくていい。
その人が、「これは私だけの物語である」と思うようにつくれ。
もし出来がよかったら、
それは全員が、
「これは誰の為でもない、私の為の物語である」と思う。
それが真のマスコミュニケーションである。
宗教家とか、カリスマってそういうコミュニケーションを取るらしい。
歌とかも、そうだよね。
物語も、それと同じだ。
たった一人に響くように作っているのに、
まるで全員が「俺に一番響いてる」と思うものが、
理想なのだ。
「全員の共通部分に響くもの」をつくったら、
矮小な、程度の低いものしかできない。
それは間違っている。
深くて、徹底的に個人的で、パーソナルな心を描いたものだけが、
全員が共通して想像できる、鋭くて広いものになる。
だから、たった一人に書いたもので、
しかも全員が想像できるものになっているか、
という、真逆の視点から自作品を見れるかどうかが、
キモなのだ。
前者だけだと視野の狭いものになり、
後者だけだと最大公約数だけの方法論になってしまう。
徹頭徹尾個人の深いパーソナルな部分なのだが、
どんな人にも想像できるものになっているべきだ。
それが深い物語のあり方だ。
2021年12月01日
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