というのは、いつでもどこでもいるもんだな。
「調べ方が分からない」から、
「調べると似た情報までたどり着ける」
「そこから自分の欲しい形に変換すれば、
知りたかったことを補完できる」
になるにはどうしたらいいか。
それが真の教育のような気がするが、
図書館へ行く、本屋へ行く、ググる、誰かに聞く、
以外に方法があるものかね。
この話が興味深かった。
Twitterより引用。
>> 私が好きな職場にかかってきた頭のおかしい電話は、ゲーセンで働いていた人が言っていた「○○のコマンド表教えてください」で押し問答したあげく教えてもらえる段になって「じゃあ電卓のキー配列で言います」「電話のでお願いします」「電卓で」「電話のでないとだめなんです!」で切れたやつですぅ。
格闘ゲームのコマンド表(波動拳とか)は、
8方向のレバーで表記される。
ここでいう電卓のキー配列は、
789
456
123
で、
電話のキー配列は、
123
456
789
だ。
波動拳の電卓表記は236Pってことね。
この記法は、ネット黎明期に、
テンキーのあるキーボードで編み出された表記法で、
これがデファクトスタンダードになっている。
だからこの店員もそれを使おうとしたのだ。
だがこの客は、
自分が電話してるもんだから、
目の前の電話しか見れなかったから、
「目の前に見ているもの」しか、
理解できなかった。
電卓表記で一旦聞いておき、
あとで暗号を解読すればよいものを、
自分の見た目に変換しろと強要したわけだ。
「相手のできる方法で受け取り、
変換は自分側でやる」という方法を、
この客は想像すらできていない。
そもそも店員の見ている表はレバー方向で印刷された表であり、
それをわざわざ声でしか伝達できないメディアに、
変換してくれようとしてるのに、
それすら想像できていない。
「想像力の欠如」と批判するのは簡単だが、
目の見えてない人に「見ろ」というのは酷である。
「想像するとはこういうことだ」
まで教えないと、
他に類推することは困難であろう。
もともと、
コマンド表は隠し要素であり、
ユーザーたちが偶然見つけて楽しむ、
裏技的なものだった。
(少なくともスト2までは)
だから公式発表はなく、
ユーザーたちが情報交換して広めて行く、
という文化が出来て、それが面白かった。
でもそんなゲームばかりになり、
どれがどれかわからないし、
一々そのコミュニティに入るのもめんどくさいから、
全部の表が出回るようになる。
で、ゲーセンもサービスとして、
手作りの表を壁に貼ったりしていた。
本来のゲームの楽しみ方としては、
「自分で見つける」だから、
ゲーセンから公式に発表するのはメーカーへの裏切りである。
だから「ここに通うユーザーが攻略したまとめ」という体にして、
店員が自主的に手書きで書いたりしてた。
だから、
「あのゲーセンにはコマンド表貼ってあったぜ」
なんて情報もあって、
僕らは自転車を漕いで隣町までいき、
そこのゲーセンでメモを取りまくったりしていた。
ギースのレイジングストームとか懐かしいなあ。
1632143BCだね。
(僕は黎明期からやってたから、
スト2からバーチャ2くらいまではそうしてた。
ギルティギアとからへんになると、
調べないバカが増えたように感じる)
さて、
こうした、
「調べ方を自力で開発して(隣町のゲーセンまで自転車でいき、メモを取る)、
調べたものを最終的に自分のやり方に変換して(電卓表記からレバーの動き)、
それで利益を得ること」
を、
人は学ぶべきだ。
釣りとか料理とか、
リアルに何かを「する」趣味は、
全部そうかもしれない。
コツとか知識とかあるけど、
それらをカタログ的に集めてもなんにもならなくて、
自分で「出来る」ようにならないと意味がない。
そうした体験があれば、
「表現されたものは、
あることを表現しようとしているのだが、
我々側にはさまざまな表記法や使い方があるから、
偏りのない標準的な記法で表記する。
受け手は、自分側の事情に変換して受け取れば良い」
という、
表現と受け手の関係性がわかってくると思う。
だけど、
それを解さない、
調べたり理解したり応用したり出来ない人が、
世の中に一定数いて、
それをバカという。
こうした人が、
「悪人が車に乗るときにシートベルトをしてないのは違法である」
と、ドラマにクレームを入れるのだろう。
見たままのがすべてじゃない。
あんたの中で使えるものに変換するんだよ。
電話表記しか認めなかったこの客は、
自分の目の前の事情がすべてで、
相手の事情まで想像する力がない。
それは目の前しか知らないからだ。
ゲーセンに通うような人ならば、
色んな壁にコマンド表が貼ってあったりすることを知ってるから、
「見に行けばいいじゃん」と思えた。
それすら分からないやつは、
やっぱゲームするべきじゃないよな。
そんな向いてない客にもサービスしてあげようとした、
店員の仕事ぶりには頭が下がるが、
「是非当店へお越しください。
コマンド表は教えられませんが、
お客様がメモするのは自由です」と、
営業して終わりにしとけば良かったのになあ。
「教えろ/教えない」という押し問答では、
いずれ寄り切りになる。
客の方が力が強いからだ。
そうではなく、別の軸にうっちゃる力が、
ここで求められた機転だったかもね。
僕はこの店員を救いたいのではない。
客の方、この救いようのないバカを救いたい。
解説する力でなんとかなるなら、
調べるとはどういうことか、
それを応用するとはどういうことかを、
解説したいわけだ。
また文系差別になってしまうけど、
理系なら調べると思うんだ。
調べて変換して応用するのは、理系の常識だからね。
そういうことに向いてない人が、
数学で挫折して、
文系しかいけずに、
想像力もないまま文系落ちするんじゃないか。
(文系落ちという言葉が差別意識だが、現象として存在する)
文系には頭のいい人もいるけど、
底辺の文系は、こういう数学的思考の落第者がいて、
底無しにできないのではないか。
(僕は高校から大学院まで理系なので、
文系の人に再会したのは社会人になってからなので、
底辺文系のことがよく分かってなかった)
底辺理系でもできる、
自分なりに変換して(精度や効率が悪いが)、
自分なりに応用する、が、
底辺文系はできないのでは?
ということ。
だから「自分の通りになっていない
(無矛盾で一貫性がある標準方法だったとしても)」と、
キーってなるんじゃないか。
つまり、
方法が分からなくて、
プライドの問題(俺をバカにするのか)になってしまっているのでは?
プライドの問題だから、絶対引かないんだよね。
というのも、この客のような人と、
今仕事をしているからで、
このゲーセンの店員の立場に僕がなっているからだ。
仕事というのは何を指すのだろう。
僕にはまだわからんよ。
僕がここで書いている脚本論は、
自分なりに理解して、適宜変換して、
応用は自分でやってくれ、
のような書き方で書いている。
だが、この客のような人には、
どんなに書いても伝わらんのだろうなあ。
極論、バカは脚本が書けない。
自分と相手がいて、それぞれ事情が違う俯瞰性を持っていない者は、
脚本が書けない。
そして、その齟齬をストーリーに利用したろと思える、
したたかで賢い人が、
脚本を書ける。
2021年11月29日
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