本人は悪意ある遊びのつもりなのだろうが、
これこそがディスコミュニケーションの好例になっていて、
とても面白い。
とりあえずこれで追えるかな。
https://mobile.twitter.com/YR17911971/status/1463413298552991744
言葉による指示が、いかに機能しないか、
を示すアートのようですらある。
いわゆる普通のインスタ映えの料理写真を求める人々に対して、
河野は意地悪にも、
「その言葉の言葉尻だけをとらえて、
言葉通りだが違うもの」
を出し続けている。
これは、言葉の限界を示すものである。
普段政治の世界では、
このようなギリギリの曲解を意図的に混ぜることで、
色々な腹芸があるのだろう。
法律はそのギリギリを突いてくる悪意を、
取り締まるために制定するから、
あのような分かりにくい文章になるのだ。
ことばを操る者として、
そもそもこれは言葉だけでやろうとしているから、
起こることだと考える。
そもそも感性や主観は曖昧であるから、
言葉、共通の言葉でコミュニケーションしよう、
というのが根底にある。
しかし言葉は万能ではない。
このような、悪意ある解釈が可能だからだ。
言葉の成り立ちは本来、
善意ある解釈のもとに、
エネルギー最小になるようにつくられている。
悪意あるものを止めるには、
エネルギーが必要であり、
そのエネルギーはコミニケーションの前提、
信頼を崩すからである。
つまりコミニケーションは、
信頼と善意が前提で、
言葉はあとづけである。
にも関わらず、
信頼もしていない、悪意があるかもしれない者と、
言葉だけでコミニケーションしようとするから、
間違いなのである。
ネットの炎上は、このことと関係している気がする。
クレーマーは主観的に言っているかもしれないが、
悪意があってわざとやってるやつもいる。
炎上の火付け係がいるということだ。
僕のやっている仕事では、
こういうことが日常茶飯事で、
だから僕はメールを信用しない。
言葉だけを追うとすぐに矛盾に突き当たるからだ。
だから僕はいつも、
「何がしたいのか?」を聞き、
その目的ならばこのような手段があるが、
目的に齟齬があるのか、
手段に齟齬があるのかを探ることがよくある。
その言葉を使うからには、このような目的なのだろう、
と本人と会えず推測せざるを得ない機会の方が多い。
言葉の伝言ゲームであり、
その言葉が最初どのような意図や文脈で発せられたのか、
不明なことがほとんどだ。
これはこの仕事をやる上でもっとも癌だと思っている。
言葉を100%正確に言える人はいない、
という前提に立ってなくて、
クライアントのお言葉絶対、な教条主義に陥り、
それは最初の約束と違うよね、と現場が疑問符を提示しても、
営業は「よくわからんからクライアントの言う通りにしろ」
と恫喝して、
渋々その通りにしたら「指示と違う」ってなる場面が98%くらいある。
誰も幸せになっていない。
そもそもその指示はクリエイティブ的にセンスがなかったりするものだから、
「その意図ならばこのやり方の方がずっといい」
と提案すれば済むことで、
その提案をするために、
指示通りのおかしなパターンを作らざるを得ず、
両方比べさせる、
という無駄な手間が発生し過ぎている。
目的さえ共有できれば、
手段は問わない、
という風にすれば、
これらのディスコミュニケーションがなくなるのに。
河野太郎のインスタ映えでいえば、
「あなたが食べたランチがどんなものだったか知りたいし、
それが美味しそうなら我々は嬉しい。
しかし満足は食べ終えたあとにしかやって来なくて、
空の皿を見ても我々はわからない。
だから食べる前に料理の美味しさがわかる写真を撮り、
美味しくなかったら捨てて、
美味しかったら感想と共にその写真を見せてくれ」
と、
目的を共有すればいいのだ。
もちろん河野太郎は、
「その目的には合意できない」という自由がある。
あるいは、
「こんな感じの写真を」と例示するやり方もある。
「我々を真似してください」という方法だ。
何も分からなくていいから、
形だけ整ってればよし、という虚しさを生むが、
とりあえず何もできない状態から、
何かが出来た状態にするには手っ取り早い方法だ。
低学年のお遊戯や、軍隊式教育では有効だろう。
とりあえず急に成長させる必要があるときは有効で、
落ち着いたあとに、
「実はこのような意味があったのだ」と、
解説してくれれば、それは実になる。
僕はお遊戯の意味についてまだ教わっていないが。
「同調圧力にはしたがえ」しか意味を知らない。
ちなみに僕は幼稚園でお遊戯を拒否する子供で、
楽しくないのに踊れないし、
そもそもこの演目の感情は自分にしっくり来ないという、
とても気難しい子供だった。
だいたい今と同じだな。
さて、
さまざまなコミュニケーションがある。
善意ある人への言葉
悪意ある人への言葉
目的を共有して手段はまかせる
例を示してこんな感じ
この通りにやれという強制
僕は、
善意ある人との言葉によるものか、
違う世界の人とは目的の共有が、
一番幸せを生み、
例示が次善策で、
強制と悪意前提の言葉が、
最悪だと思っている。
そして最悪なふたつは、
軍隊や政治で使われているわけだね。
河野太郎はおそらくそうした業界の人間で、
いつもやってることを、
ランチのとんちで遊んでいるに違いない。
これが現在のネットのディスコミニュケーションの、
高度な実験になっていて、
非常にいい例だと思った。
ディスコミュニケーションを避けるには、
今ディスコミが起こっていると察知して、
コミュニケーションの手段を変えて試すことだ。
同じところでぐるぐる回り、
いつまでもディスコミが起こることが最悪だ。
河野太郎はそれを知っていて、
Twitter、言葉限定というスタイルをわざと変えない。
どこまでディスコミニケーションを再現できるか、
これは現代的な実験アートである。
2021年11月25日
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