我々の目的は「最小労力に至ること」だろう。
仮にエンドゲームに達して、
「すべての日本語を書くための最小労力ができた!」
としよう。
しかしそれは0ではない値を取ると思う。
ぶっちゃけ、
どんなに効率化したとしても、
「長い文章を書けばそれだけ疲れる」のだ。
僕は手書きで小説や脚本や、
なにかをたくさん書いてきた。
その方が楽だったからだ。
人生での「書き物」の、
エネルギー最小値に、すでに達していた気がする。
その最小値に比べて、
サイトメソッドはエネルギーが大きいし、
qwertyローマ字はエネルギーが莫大すぎるし、
BSやエンターやカーソルやシフトやCtrlなどによる、
IME操作はエネルギーが大きいし、
キーボードはエネルギーを使いすぎる。
僕が「入力統合環境」を目指して、
文字の論理配列から、
IME操作のショートカットや動線整理やら、
スイッチを改造したりしたのやら、
指の動線を最小化しようとして3Dキーキャップを作っているのは、
すべて、
「手書きの最小値」との比較で考えていると思う。
で、
仮に最小値になる、
つまり手書きとイコールになる、
ないしそれを下回るものに至ったとしても、
「疲れること」自体に変わりはないんだな、
と、
ゴールした後のことを想像した。
つまり、
最小労力法の方式に関わらず、
「一日中書けば疲れる」のは変わらないんだな。
ただそれが、
風呂と睡眠で、次の日回復してさえいれば、
まあ問題ないということだ。
僕は手書きで腱鞘炎になったことはないが、
(指紋がすり減ったことはある。タコは出来なかった)
qwertyローマ字のブラインドタッチを学ぼうとして、
手が痛くなり、それを回避しようとして、
カタナ式開発中に腱鞘炎になった。
それからは、
ずっとその痛みと比較しながら、
「ここまでやると明日に響く」
の感覚を養ってきている感じ。
でも、
書きたい量は年々増えている気がする。
脚本理論的なものは、
かつて書籍レベルで手書きしてワードに清書で貯めていたが、
管理も面倒なのでブログ形式で、
ほとんどフリックか薙刀式で書いている。
それに加えて、仕事の分は、
手書き→薙刀式で清書、
のループをやっている。
今のところこれがエネルギー最小だ。
初稿をタイピングで書かないのは、
まだタイピングのほうが労力が大きいと実感しているからだ。
だってタイピング、両手使うじゃん。
右手も、ほとんど使わないとはいえ、
小指使わされるじゃん。
肘や肩のダメージも、手書きならほとんどない。
目の疲れは、やはりモニタの方が大きい。
あれ?
やっぱタイピングの最小労力って、
手書きよりどうしても大きくなるのかな?
いつかエンドゲームにたどり着けたとして、
手書き並になったとしても、
「手書きの疲労感」はあるんだよな。
手書きで疲れる時はほとんどない。
今のところ最高が、
小説で一日1万7000字というのがあるけど、
肉体よりも脳が疲れて、次の日は眠くて眠くて、
回復するのに数日かかった。
何も出てこなくなるんだよね。
で、おそらく、その間に、
手や肉体の疲れは回復してしまうのだろう。
タイピングでそうなったことはない。
一万字書くなんて考えられないもの。
コピー打鍵なら2万字はたぶん行けるだろうが、
初稿をそんなに書くのは今のところ、
手が無理だと思う。
一日5000字くらい、
というプロ小説家のペースはよくわかる。
それを10日キープで5万字、
20日で10万字(単行本一冊)、
休みを入れれば一ヶ月で一冊。
その他に構想などを考えれば、
年間4冊ペースはこれで守れそうだ。
5000字で「明日に疲れを残さない」ものが、
おそらくはエンドゲームになるのではないか?
とはいえ、
「猛烈に書きたい時」というのが創作にはあって、
一日2万字の怒涛がやってくる時もある。
(そのあとホワイトアウトするが)
そのときに、5000字までしか使えない道具に、
したくないんだよな…
手書きの最小労力のイメージからすると、
薙刀式による「書く」は、
短期的にはそれほど変わらず、
時に手書きを上回る速度だが、
長期的には手書きの数倍に跳ね上がると実感している。
この後半の部分を、最小にしたい。
寝返りみたいな、遊びが鍵なのかしら。
一日中書くようなときに、
何が起こってるのか知りたい。
監視カメラつければいいのかな。
2021年11月28日
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