2021年12月03日

「生意気な後輩が書いて来た」メソッド

自分の作品に客観的になることは、
大変難しい。
僕がお勧めする確実な方法は、
「三ヶ月机の引き出しにしまって、一切見ずに忘れる」
だけど、そうはスケジュールが許さない。

で、最近編み出したのがこれ。




足りない、ダメな後輩がいるとしよう。
イマジナリー後輩でもいいし、
ほんとにダメな後輩を想定してもいい。

そいつが生意気にも脚本を書いて来たと仮定する。

さあ、説教してやる、と意気込むのだ。

お前は脚本の何をわかってるというのだ、
何にも分かってないではないか、
俺が基本のキから教えてやるわ。

まずテーマはなんだ?
ログラインを書いてみろ、
構造とテーマが一本線になってないではないか、
舞台設定はいいけど、ガワだけで、
人間の本質を描いたと言えるのか、
など、
など、など…

細かいところを添削してもいい。

さっきのセリフをなんで伏線に使ってないんだよ、
キャラに魅力が足りてない、
どこかで見たような場面だな、
誤字発見!
など、
など、など…


あなたの書いた脚本の表紙には、
おそらくあなたの名前が書いてある。
それを一回消して、
生意気で、ダメな後輩の名前を書いてやれ。

そしたら急に、
ボコボコにしてやる、という気概が湧いてくるものだ。

そして勿論可愛い後輩なので、
「いや、だが、ここはいい部分なので残したまえ」
があるだろう。
そこが、その作品のいいコアになるはずだ。

そこ以外は全部捨ててやり直したっていいんだ。

でも、コアを切って捨ててはいけないのだ。


いや、さらにコアを捨てて、
全く別のもっといいものに生まれ変わらせてもいいぞ。

あなたが後輩に指導するとしたら?
その生意気な鼻っ柱を一回追ってやるとしたら?
その刃を自分に向けると辛いが、
その後輩になら向けられるだろう。


イマジナリー後輩でなくてもよい。

PNは、こうした時に役に立つ。

単に本名を明かしたくないからPNにするのか?
多分僕はそうじゃないと思う。

「これは本当のオレが書いたものではない。
PNという作家が書いたものにすぎず、
オレはPNという架空の人格を演じてるに過ぎない。
だから、この架空の人格に、
ダメ出しをしまくるぞ」
という風に、
「自分とPN人格を切り離して考える」
ことができるようになる。

別人格だから、どんなにボコボコにしても、
ほんとうの自分は傷つかない。


自己批評の辛いところは、
自分に向けた刃は痛いことである。
しかし刃を鈍らせては、
ほんとうの批評などできない。
忖度のある批評など批評ではない。
しかし正直に批評すると傷ついて自殺してしまう。

そんなジレンマを、ダメな後輩やPNという別人格にすることで、
回避できる可能性がある。


こうした別の自分を演じるのは、
女の方がうまいと思う。
外に出る時化粧したりするからね。
化粧してるときは「外の自分」なんて使い分けをしてたりする。
まあ男も「オレ」というときと、
「わたし」とスーツを着ていうときは、
仕事とプライベートを使い分けてるかもしれないが。

とにかく、
あれはオレが書いたんじゃない、
別の誰かが書いたやつで、
オレは傷つかない。

そう思ったら、
本気で批評できるというものだ。

そして、他人だからこそ、
「こうしてはどうか」
と無責任に外からいえるんだよね。


脚本家でPN持ってる人はあんまり聞かないね。
ためしにちんこビンビン丸が書いた作品、
と仮定してみよう。
どうせ大したことないぜ。
posted by おおおかとしひこ at 01:56| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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