世の中には沢山の構成法がある。
三幕構成理論、序破急、起承転結、
前振り、展開、落ち、
Aメロ、Bメロ、サビ、サビアタマ。
あるいは、
序論、本論、結論、
梗概、問題、解決、反省、
などなど。
これらが威力を発揮するのは、
「ある程度長いやつ」に限ると僕は考えている。
スピーチをするとしよう。
数分なら、アドリブでなんとかなるのではないか。
10分くらいならどうしよう。
前振りとオチだけ考えておいて、
あとは流れでいけそうだ。
20分なら?
ちょっと手強いね。
アドリブでやるとまとまらない可能性がある。
これは構成を考えて、
まとめる必要がありそうだ。
このことと、全く同じだと思う。
短い話には構成理論は不要だ。
アドリブで、面白ければそれでいい。
短編はむしろ、
既成の構成からはずれた、
新規性こそが大事だったりする。
「そのパターンはなかったわ!」という面白さだ。
そうしたものを、「キレ」という。
ところが、
ある長さあたりから、
構成がないとめちゃくちゃに終わってしまう、
というものに質が変わってくると思う。
なんでだろう。
短いものはスナックにたとえられる。
おいしいが、栄養としては適当なものだ。
刺激物としては良いが、それだけのものだ。
長いものは、ちゃんとしたごはんだ。
栄養として、身にならなければならない。
つまり、
ある程度以上長い話は、
「身になる」ことが期待されている。
一分のスピーチなら、
笑いを取れたり、おっと思えればいいだろうが、
30分のスピーチをするなら、
聞いた誰もが、
「聞いてよかった、これは価値がある」
と思えなければならない。
つまり、
「その時間集中して、
耳を傾けるコストを払うからには、
それに見合ったリターンがなければならない」
ということだ。
このリターンは、
なんだろう、ということだ。
ただ笑った、泣いた、ドキドキした、
だけならば、
短いスナックと変わらない。
スナック数回分、というだけの話だ。
数回分の集中をして、数回分のスナックしか得られないなら、
好みの回数のスナックだけでよい。
そうではなく、
まとまった長い集中なのだから、
それ以上の満足感が必要なのである。
それは、
「自分の人生の、身になる」
以外にないと思う。
ある知識を得た、ある納得を得た、
あることが疑問だったが、それが確かだと思った、
などの、
「話を聞き終えた人が、
それ以前と以後で、認識を変えていること」
が必要なのではないだろうか?
それは、ほんの少し変わるだけかもしれないし、
ガラリと人生観が変わるかも知れない。
おそらく、
その変わり度合いが「すごい話」
になるのではないだろうか?
すごい話は、話の側ではなく、
聞いた側に起こる反応の度合いで決まるのだ。
すごい話だからといって、
何もスナック的な刺激的な話である必要はない。
何気ない日常しか出てこなくても、
こちら側の認識がまるで変わってしまうのは、
すごい話だ。
たとえば老子の「胡蝶の夢」は、
それに気づく前と後では、がらりと考え方が変わってしまうよね。
短いけどすごい話だと思う。
さて、
長い話において、
それが価値があるかどうかは、
その長さを最後まで集中するだけの、
我々の身になるかどうか、
がキモであると思う。
で、構成論にやっと戻ってくると、
構成が必要なのは、
その集中を持続させるための方法論だ、
と考えると良いだろう。
短い話は、おそらく短期記憶で頭の中に広がる。
短期記憶で行けるレベルの話を、
短い話といえる。
スピーチなら数分だろうか。
シナリオなら10分以内かなあ。
長い話は、短期記憶では捌き切れない量があるため、
構成によって圧縮するのだ。
「今は序論の部分だな」
「今は本論の部分だな」
などと聞く側が自覚しながら聞いているから、
理解がすすむのである。
(この話は今本論だね)
構成はつまり、話す側から、聞く側への、
「手渡し方」なのだ。
長い話が上手い人、構成が上手い人は、
相手に対して、
身になる話ができる人で、
なおかつそれを記憶に残りやすく、
納得いきやすく、
集中が持続するように、
話せる人のことである。
それはつまり、
「今目の前で起きているこのことは、
全体でいうとこの辺の話」を、
話す側も聞く側も、
見失っていない、ということだ。
長い話でよくあるのが、
今どの辺の話をしてるのか分からないとか、
今やってることが全体でどういう意味があるのか分からないとか、
そのような「つまらなさ」である。
せっかくプロットが面白くても、
それを話す際の構成がまずく、
部分と全体を見失うような話し方では、
聞く側の集中力が続かないのだ。
もちろん、長い話では、
適切な休憩も必要だろう。
映画では15分を1リールと考えて、
15分を1セットの集中力で見れるような、
編集の組み方をするものだ。
で、
三幕構成理論やら、
起承転結やらは、
その「長い話」を、
どのように圧縮すれば、
受け手に受け取りやすくなるのか、
という形式なのである。
脚本といえば構成、
みたいな誤解があるのは、
大抵最初に構成の話をするからで、
僕はこれは間違いだと思っている。
まずは事件と展開と解決の、
メインストーリーができていなければ、
構成もクソもないのだ。
感情移入に値するエピソードや、
泣けるエピソードや、
驚くべきどんでん返しがなければ、
話としての価値すらないのだ。
あるいは、
それらの長い話を集中した結果、
そのコストに見合うリターンが、
その話にあるのか、
がないと構成以前の問題なのだ。
構成とは、
これらがあると確信したときに、
それを二時間で語るには、
このような時間配分と内容でいくべき、
という経験論に他ならない。
そのスタイルで話せば、
みんな納得しやすい、
というだけのことである。
一幕に一時間かけたり、
二幕がしょぼかったり、
三幕が5分しかなかったりするのは、
納得に見合わない出来になるよ、
というだけのことである。
あるいは、二時間話すのに、
結起承転みたいなヘンテコな順番で話したら、
おかしなことになるよ、
でしかないわけだ。
構成とはつまり、
内容のこの部分を、
この順で、
これだけの時間配分で話せ、
ということを言っているにすぎないのである。
さて。
この「さて」は、
話が変わったよ、というターニングポイントのことだが、
この楔が打ち込まれる大きなポイントは、
序盤と中盤の間、
中盤と終盤の間なわけだ。
その「さて」は、
ストーリーにおいては第一、第二ターニングポイント、
といっているに過ぎないのだ。
ちなみにこの「さて」は、
これから結論に入ろうとしている区切りだね。
短い話はスナックである。
キレが大事だ。
長い話は、身にならなければリターンがない。
それを順次うまく伝達するために、
構成というものがある。
構成は、「どう話すか」の理論でしかなくて、
「何を話すか」の理論ではない。
構成理論だけ学んでも、何を話すかは誰も決められないぞ。
シナリオで言えば、
三幕構成理論が必要なのは、
なんとなく15分以上かな。
その前後で、人の集中力が、変わる気がする。
(だから14分なら不要で、
16分なら絶対必要というわけでもない。
人間の集中力は分単位で変わるわけじゃないからね)
また、三幕構成理論は、
この文章のような、ストーリーでないものに適用できるとも思えない。
この文章は解説文なので、
僕は序破急構成で書いたつもり。
序で世界を設定して(短いスピーチと長いスピーチ)、
破でそれを壊して再構築して(長いものに必要な構成)、
急で結論に達した感じ。
二時間かかって読むものではないと踏んで、
序破急の構成をした感じだ。
三幕構成理論は、二時間のストーリー、
という極めて特殊な形態用だと思うよ。
たとえばネットフリックスのような連続ドラマには、
うまくはまらないはずだ。
(それぞれの話は三幕構成で作られてるだろうが)
2022年01月01日
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