2022年01月01日

構成が必要な時間

世の中には沢山の構成法がある。
三幕構成理論、序破急、起承転結、
前振り、展開、落ち、
Aメロ、Bメロ、サビ、サビアタマ。
あるいは、
序論、本論、結論、
梗概、問題、解決、反省、
などなど。

これらが威力を発揮するのは、
「ある程度長いやつ」に限ると僕は考えている。


スピーチをするとしよう。
数分なら、アドリブでなんとかなるのではないか。

10分くらいならどうしよう。
前振りとオチだけ考えておいて、
あとは流れでいけそうだ。

20分なら?
ちょっと手強いね。
アドリブでやるとまとまらない可能性がある。
これは構成を考えて、
まとめる必要がありそうだ。


このことと、全く同じだと思う。

短い話には構成理論は不要だ。
アドリブで、面白ければそれでいい。
短編はむしろ、
既成の構成からはずれた、
新規性こそが大事だったりする。
「そのパターンはなかったわ!」という面白さだ。
そうしたものを、「キレ」という。

ところが、
ある長さあたりから、
構成がないとめちゃくちゃに終わってしまう、
というものに質が変わってくると思う。

なんでだろう。

短いものはスナックにたとえられる。
おいしいが、栄養としては適当なものだ。
刺激物としては良いが、それだけのものだ。

長いものは、ちゃんとしたごはんだ。
栄養として、身にならなければならない。

つまり、
ある程度以上長い話は、
「身になる」ことが期待されている。

一分のスピーチなら、
笑いを取れたり、おっと思えればいいだろうが、
30分のスピーチをするなら、
聞いた誰もが、
「聞いてよかった、これは価値がある」
と思えなければならない。

つまり、
「その時間集中して、
耳を傾けるコストを払うからには、
それに見合ったリターンがなければならない」
ということだ。

このリターンは、
なんだろう、ということだ。

ただ笑った、泣いた、ドキドキした、
だけならば、
短いスナックと変わらない。
スナック数回分、というだけの話だ。

数回分の集中をして、数回分のスナックしか得られないなら、
好みの回数のスナックだけでよい。
そうではなく、
まとまった長い集中なのだから、
それ以上の満足感が必要なのである。

それは、
「自分の人生の、身になる」
以外にないと思う。

ある知識を得た、ある納得を得た、
あることが疑問だったが、それが確かだと思った、
などの、
「話を聞き終えた人が、
それ以前と以後で、認識を変えていること」
が必要なのではないだろうか?

それは、ほんの少し変わるだけかもしれないし、
ガラリと人生観が変わるかも知れない。
おそらく、
その変わり度合いが「すごい話」
になるのではないだろうか?

すごい話は、話の側ではなく、
聞いた側に起こる反応の度合いで決まるのだ。

すごい話だからといって、
何もスナック的な刺激的な話である必要はない。
何気ない日常しか出てこなくても、
こちら側の認識がまるで変わってしまうのは、
すごい話だ。
たとえば老子の「胡蝶の夢」は、
それに気づく前と後では、がらりと考え方が変わってしまうよね。
短いけどすごい話だと思う。


さて、
長い話において、
それが価値があるかどうかは、
その長さを最後まで集中するだけの、
我々の身になるかどうか、
がキモであると思う。

で、構成論にやっと戻ってくると、
構成が必要なのは、
その集中を持続させるための方法論だ、
と考えると良いだろう。

短い話は、おそらく短期記憶で頭の中に広がる。
短期記憶で行けるレベルの話を、
短い話といえる。
スピーチなら数分だろうか。
シナリオなら10分以内かなあ。

長い話は、短期記憶では捌き切れない量があるため、
構成によって圧縮するのだ。
「今は序論の部分だな」
「今は本論の部分だな」
などと聞く側が自覚しながら聞いているから、
理解がすすむのである。
(この話は今本論だね)

構成はつまり、話す側から、聞く側への、
「手渡し方」なのだ。

長い話が上手い人、構成が上手い人は、
相手に対して、
身になる話ができる人で、
なおかつそれを記憶に残りやすく、
納得いきやすく、
集中が持続するように、
話せる人のことである。

それはつまり、
「今目の前で起きているこのことは、
全体でいうとこの辺の話」を、
話す側も聞く側も、
見失っていない、ということだ。

長い話でよくあるのが、
今どの辺の話をしてるのか分からないとか、
今やってることが全体でどういう意味があるのか分からないとか、
そのような「つまらなさ」である。
せっかくプロットが面白くても、
それを話す際の構成がまずく、
部分と全体を見失うような話し方では、
聞く側の集中力が続かないのだ。

もちろん、長い話では、
適切な休憩も必要だろう。
映画では15分を1リールと考えて、
15分を1セットの集中力で見れるような、
編集の組み方をするものだ。


で、
三幕構成理論やら、
起承転結やらは、
その「長い話」を、
どのように圧縮すれば、
受け手に受け取りやすくなるのか、
という形式なのである。

脚本といえば構成、
みたいな誤解があるのは、
大抵最初に構成の話をするからで、
僕はこれは間違いだと思っている。

まずは事件と展開と解決の、
メインストーリーができていなければ、
構成もクソもないのだ。
感情移入に値するエピソードや、
泣けるエピソードや、
驚くべきどんでん返しがなければ、
話としての価値すらないのだ。
あるいは、
それらの長い話を集中した結果、
そのコストに見合うリターンが、
その話にあるのか、
がないと構成以前の問題なのだ。

構成とは、
これらがあると確信したときに、
それを二時間で語るには、
このような時間配分と内容でいくべき、
という経験論に他ならない。

そのスタイルで話せば、
みんな納得しやすい、
というだけのことである。

一幕に一時間かけたり、
二幕がしょぼかったり、
三幕が5分しかなかったりするのは、
納得に見合わない出来になるよ、
というだけのことである。

あるいは、二時間話すのに、
結起承転みたいなヘンテコな順番で話したら、
おかしなことになるよ、
でしかないわけだ。

構成とはつまり、
内容のこの部分を、
この順で、
これだけの時間配分で話せ、
ということを言っているにすぎないのである。


さて。

この「さて」は、
話が変わったよ、というターニングポイントのことだが、
この楔が打ち込まれる大きなポイントは、
序盤と中盤の間、
中盤と終盤の間なわけだ。
その「さて」は、
ストーリーにおいては第一、第二ターニングポイント、
といっているに過ぎないのだ。

ちなみにこの「さて」は、
これから結論に入ろうとしている区切りだね。


短い話はスナックである。
キレが大事だ。
長い話は、身にならなければリターンがない。
それを順次うまく伝達するために、
構成というものがある。
構成は、「どう話すか」の理論でしかなくて、
「何を話すか」の理論ではない。

構成理論だけ学んでも、何を話すかは誰も決められないぞ。

シナリオで言えば、
三幕構成理論が必要なのは、
なんとなく15分以上かな。
その前後で、人の集中力が、変わる気がする。
(だから14分なら不要で、
16分なら絶対必要というわけでもない。
人間の集中力は分単位で変わるわけじゃないからね)

また、三幕構成理論は、
この文章のような、ストーリーでないものに適用できるとも思えない。
この文章は解説文なので、
僕は序破急構成で書いたつもり。
序で世界を設定して(短いスピーチと長いスピーチ)、
破でそれを壊して再構築して(長いものに必要な構成)、
急で結論に達した感じ。

二時間かかって読むものではないと踏んで、
序破急の構成をした感じだ。


三幕構成理論は、二時間のストーリー、
という極めて特殊な形態用だと思うよ。
たとえばネットフリックスのような連続ドラマには、
うまくはまらないはずだ。
(それぞれの話は三幕構成で作られてるだろうが)
posted by おおおかとしひこ at 10:57| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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