語り手タイプの小説では可能だが、
映画シナリオでは出来ないこと、いくつか。
・なぜだか分からないが、○○であった。
世界には不可解なことがあるものだ。
これは映画では出来ない。
映画では世界の不可解さを表現する意図をのぞいて、
すべての理由は理解できなければならない。
登場人物の行動や感情、
行動の結果は、
「わかる」でなければならない。
小説では、この地の文で、
いわばなんでも接着できて、
異物同士を接着することが、
語り手によって可能だけど、
シナリオでは不可能だ。
解説者(たとえば「世にも奇妙な」のタモリの役目)
は、シナリオにはいないのだ。
・それは彼には分かりかねた。
観察者の主観である。
これを客観的なものに変換する必要がある。
彼「…それは分かりかねる」
彼「…?」
などだ。
同様に、観察者が観察した結果、
「そのようである」と推察したものは、
すべて観客にも推察可能な表現である必要がある。
「彼は世界は我のもの、という時を生きていた。」
とか、シナリオでは表現不可能だ。
・比喩表現、連想
同様に、
「彼女の髪はエーゲ海より豊かである」
「彼女の豊かな髪はエーゲ海を思わせる」
などの、シャシンで表現しようのない比喩は、
バッサリ捨てなければならない。
まさか彼女の髪とうねるエーゲ海
(エーゲ海かどうかシャシンで分かるのは、
結構難しいが)を、
オーバーラップさせて表現する?
それはかなりダサい表現だよね。
小説では、なるべく突拍子もない比喩を用いるべきだろう。
今ここにないものを使うことが肝心だと思う。
一方シナリオでは、
今ここにあるものしかない。
だから、今ここにあるものリストを書けば終わりだ。
あとは「それが何をするか」がシナリオのメインだ。
三つほど例を出したが、
これらはすべて「語り手が思ったこと」
なんだよね。
もちろん語り手はそこで起こったことを、
なるべく客観的に我々に伝えようとしてくれているわけだが、
そこに彼の主観が介在しないわけがない。
むしろその、主客入り混じった感じが、
体験談としてのリアリティだ。
いわば主観カメラのような没入感なわけだ。
語り手は、だから、小説において万能な武器だなあ、
などと思った。
主観と客観を自由に行き来できる。
シナリオはそうではない。
徹頭徹尾客観である。
登場人物の脳内は見えない。
言動から察するのみだ。
どんな形容も、見えているものだけである。
2022年01月04日
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