2022年01月04日

語り手の存在2

語り手タイプの小説では可能だが、
映画シナリオでは出来ないこと、いくつか。


・なぜだか分からないが、○○であった。
世界には不可解なことがあるものだ。

これは映画では出来ない。
映画では世界の不可解さを表現する意図をのぞいて、
すべての理由は理解できなければならない。
登場人物の行動や感情、
行動の結果は、
「わかる」でなければならない。

小説では、この地の文で、
いわばなんでも接着できて、
異物同士を接着することが、
語り手によって可能だけど、
シナリオでは不可能だ。

解説者(たとえば「世にも奇妙な」のタモリの役目)
は、シナリオにはいないのだ。


・それは彼には分かりかねた。

観察者の主観である。
これを客観的なものに変換する必要がある。
彼「…それは分かりかねる」
彼「…?」
などだ。

同様に、観察者が観察した結果、
「そのようである」と推察したものは、
すべて観客にも推察可能な表現である必要がある。

「彼は世界は我のもの、という時を生きていた。」
とか、シナリオでは表現不可能だ。


・比喩表現、連想

同様に、
「彼女の髪はエーゲ海より豊かである」
「彼女の豊かな髪はエーゲ海を思わせる」
などの、シャシンで表現しようのない比喩は、
バッサリ捨てなければならない。

まさか彼女の髪とうねるエーゲ海
(エーゲ海かどうかシャシンで分かるのは、
結構難しいが)を、
オーバーラップさせて表現する?
それはかなりダサい表現だよね。

小説では、なるべく突拍子もない比喩を用いるべきだろう。
今ここにないものを使うことが肝心だと思う。
一方シナリオでは、
今ここにあるものしかない。
だから、今ここにあるものリストを書けば終わりだ。
あとは「それが何をするか」がシナリオのメインだ。



三つほど例を出したが、
これらはすべて「語り手が思ったこと」
なんだよね。
もちろん語り手はそこで起こったことを、
なるべく客観的に我々に伝えようとしてくれているわけだが、
そこに彼の主観が介在しないわけがない。
むしろその、主客入り混じった感じが、
体験談としてのリアリティだ。
いわば主観カメラのような没入感なわけだ。

語り手は、だから、小説において万能な武器だなあ、
などと思った。
主観と客観を自由に行き来できる。


シナリオはそうではない。
徹頭徹尾客観である。

登場人物の脳内は見えない。
言動から察するのみだ。
どんな形容も、見えているものだけである。
posted by おおおかとしひこ at 00:00| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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