2022年01月04日

語り手の存在3

ちょうどいい例を仕入れたので。
少女漫画は、
演劇的映画的な第三者視点と、
語り手スタイルの小説的主観視点の、
間くらいの位置関係にいる。


その短い例をひとつ。
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まあ内容はあくまでネタなので、
注目するべきはその形式だ。

少女漫画にあり、少年漫画や映画シナリオにないものは、
「心の声」だ。
「橋田千代子(16)、今とっても困ってます!」
「ふたりをひとつにしちゃえばいいんだ」
などは、
演劇的手法では使えない道具である。

少女漫画の文法では、
主人公は、語り手でもあり、
行動する主体でもあるのだ。


ざっくり表にしてみよう。

      主客    行動
語り手小説 主観    しない(観察のみ)
少女漫画  主観と客観 する
演劇、映画 客観    する

まさに両方のいいとこどりをしているかのようだ。

少年漫画は、もともとハリウッド映画の影響が色濃い、
手塚や石森の系譜にあるため、
語り、すなわちモノローグを使わず、
行動とセリフによって全てを成り立たせている。

ナレーションがある時は、第三者の「ナレーター」という、
登場人物でない人がやることが多いね。
逆に少女漫画には、ナレーターは存在せず、
登場人物の心の声であることがほとんどだ。

「男は客観、女は主観」なんていうと、
すぐ女性差別といわれる昨今だが、
すでに少年漫画/少女漫画で、
これだけの客観/主観の差があるんだよね。



さて、
小説では、「語り手」という、
登場人物たちと同空間にいる別の(ほとんど行動しない)人物であるが、

演劇、映画、少年漫画では、
「ナレーター」という全く別のレイヤーの神?
が登場する。
このナレーターは人間ではないだろうね。
作者でもなく神でもない。
じゃあなんなんだろね。
全知全能の解説できる存在だ。

登場人物たちがいる空間とは別に存在するのだろう。

(このナレーターを登場人物に引き摺り下ろして、
たとえばナレーターが犯人だった、
というような叙述トリックはあるんだろうか。
一回きりのネタだろうけど)

これは、語り手とも、少女漫画のモノローグとも異なる、
抽象化のメタ次元だね。

(ナレーターが何かいうたびに、
登場人物たちが辺りを見回して「変な声が聞こえるぞ」
くらいの表現はあったかもしれないね)


演劇的、映画的シナリオでは、
ナレーターは全知全能であるから、
あまり登場させないのが不文律だ。
たいてい最初と最後くらいに限るものである。



いやしくもシナリオを書く者は、
これら三つの手法の違いを、
区別できなければならない。

なお、少女漫画のように、
やたらと心の声を言わせた映画に、
「私の優しくない先輩」という失敗作がある。
主人公の少女(川島海荷の全盛期!)は、
語ってばっかりで、
なかなか行動しなくてイライラする。

それはつまり、半分語り手側にいってて、
演劇側に来ていないという証拠だ。


語り手の思うことを吐露している間、
作中の時間は止まっている。
つまり、語る間はストーリーが進まないのである。

シナリオとは、ストーリーを進めるものである。
だから語り手がいてはならないのだ。
posted by おおおかとしひこ at 00:01| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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