2022年02月06日

設定と展開は同時

これは頭で分っていてもやってしまいがちなこと。

設定部分は設定部分、展開部分は展開部分、
とつい分けてしまうこと。


設定だけする部分はない。
展開だけする部分はある。

設定と展開は同時であるべきだ。

「はい、ここからここまで設定です。
次、ここから展開します」はつまらない。

たとえば、「怒りっぽい人」をどう設定する?
その人が何かに切れて怒る場面を描いたあとで、
次の本題に入るだろうか?
じゃあ、その設定場面まるまるなくてもよかったんじゃない?
だって、その設定している場面でストーリーが停滞しているということだからね。
停滞はストーリーの敵である。

その人が部下に怒る場面で、
怒りっぽい人を設定しているとしようか。

起こり終わって、郵便局員が何かを持ってきて、
そこからドラマがはじまるとする。
じゃあ、その人が郵便局員に怒る場面をつくればいいんだよ。
部下に怒る場面はいらないじゃないか。

あるいは、部下に怒っているが、その部下が郵便局員と同じ役割をすればいい。
手紙を受け取るとしたら、
郵便局員じゃなくて、部下がもってくればいいわけだ。
そんな風に都合よく出来ないなら、
出来るように考え直せばよい。

展開と設定は同時だ。
そうすると展開が速くなる。
ここからここまで設定、この次に展開、
というのはない。
設定しながら展開するのだ。

そもそも「怒りっぽい設定」なんて、
ちょっとした数行のやり取りで作れるよね。
展開の中で全然消化できることだと思う。

「ただ設定している場面」というのは記憶に残らない。
記憶に残るのは、ストーリーの重要場面である。

説明というのは、
している側からすればきちんと順序立てて分かりやすくしているつもりだろうが、
聞いている側からしたら右から左である。

嘘だと思うなら、保険の契約とかしてみるとよい。
あれを全部把握して理解している人はいない。
人は説明など聞いていないのだ。


記憶に残るのは、ストーリーの重要場面だ。
そこで設定するのだ。
重要な展開の第一歩を印象的なシーンにするために、
設定しながらにするのだ。

ただ手紙を見るシーンが、
たとえばびりびりに破るシーンになったり、
叩きつけてコーヒーをこぼしたり、
阪神が負けたことと絡んでさらに怒ったりなどの、
とても印象的になるだろう。
どういう工夫をするかは内容しだいだけど。


つまりは、同時に何かやることが、
工夫であると言える。

1、2、3、4、と現実は進行しないよね。
たいてい同時にいろいろやってくる。
それを印象的につくるのである。
posted by おおおかとしひこ at 01:07| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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