2022年01月24日

どっから話すかな

最初の一文が書けたら、
小説は最後まで書けたようなものとよく言われる。

それは、まず最初に最初の一文を書くわけじゃないんだよね。


そのからくりは、
内容をつくり、ケツをつくり、
事件の最初から最後まで矛盾のない、
ストーリー全体ができていることが前提で、
「その顛末を語るのに、
どこから話すのが一番的確か、
見つけた時」
ということなのだ。

仮に、
このコロナの騒動を語る時に、
武漢の食糧市場で売られたコウモリからはじめるか、
東京オリンピックからはじめるか、
ダイプリからはじめるか、
テレワークからはじめるか、
ワクワクチンチンからはじめるか、
アマビエからはじめるか、
春節にたくさん中国人が来てたことからはじめるか、
緊急事態宣言からはじめるか、
テドロスからはじめるか、

ということなのだ。

トンガの噴火を、
衛生写真からはじめるか、
現地の津波からはじめるか、
(このあとやってくる)食糧危機からはじめるか、
深夜に鳴らされた津波警報からはじめるか、
気圧変化で偏頭痛を感じていた人からはじめるか、

ということなのだ。


どのような基準で決める?
それすらも、あなたに任されている。

何から始めれば、
それと絡めたオチになる?
つまり最初の一文はオチと関係している。
オチに最も遠い伏線が、
最初の一文だからだ。


出来事自体は、
どこから語っても良い。
本能寺の変をどこから語っても、
出来事自体は不変であろう。

だけど、語り口によっては、
色々な物語になりえる。
下剋上がテーマの話でも書けるし、
裏切られた者の因果応報でも書けるし、
蘭丸と信長の悲劇の線でも書けるだろう。
時代の変わり目に現れるUFOの線でも書けるかもしれないね。

どこから話すかは、
つまり、
その出来事を、どの視点から見るか、
ということなのである。

あなたの作ったストーリーを、
そのような歴史上の出来事であると突き放して、
「どっから話すかなあ」と考えることは、
つまりはテーマをどこに落とそうとしているか?
を考えていることに他ならない。


単に自分の経験した時系列で話すやつは、
ストーリーテラーに向いてない。
その時系列を、
もっとも面白く見せられる視点を、
獲得していないからである。

あなたがぎゃふんとなった話だとしても、
その三日前の大阪のおばちゃんから話したほうが、
テーマがはっきりするならば、
そうするべきなのである。


どこから話すかは、
つまり、ここから話しておけば、
最後にここに戻れるな、
という読みでもある。

ただそれだとただのカンでしかなく、
外れることもあるから、
一回頭の中でシミュレーションをして、
ラストまで語り切れると分かった上で、
(ものによっては、とても細かい構成表を作り)
その最初の一文を書くわけである。


この話をするにあたって、
「小説家は最初の一文が…」の話をすると、
ここに落とせると思ったので、
そこからはじめました。


極論すると、
最初の一文は最後に書く。
それさえ書かれれば、あと出来ていることを順に書けば完成する。
執筆は、すでに出来ているものを文字化する行為でしかない。
最初の一文は「できた」という作家からの宣言なのだ。
posted by おおおかとしひこ at 12:23| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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