最初の一文が書けたら、
小説は最後まで書けたようなものとよく言われる。
それは、まず最初に最初の一文を書くわけじゃないんだよね。
そのからくりは、
内容をつくり、ケツをつくり、
事件の最初から最後まで矛盾のない、
ストーリー全体ができていることが前提で、
「その顛末を語るのに、
どこから話すのが一番的確か、
見つけた時」
ということなのだ。
仮に、
このコロナの騒動を語る時に、
武漢の食糧市場で売られたコウモリからはじめるか、
東京オリンピックからはじめるか、
ダイプリからはじめるか、
テレワークからはじめるか、
ワクワクチンチンからはじめるか、
アマビエからはじめるか、
春節にたくさん中国人が来てたことからはじめるか、
緊急事態宣言からはじめるか、
テドロスからはじめるか、
…
ということなのだ。
トンガの噴火を、
衛生写真からはじめるか、
現地の津波からはじめるか、
(このあとやってくる)食糧危機からはじめるか、
深夜に鳴らされた津波警報からはじめるか、
気圧変化で偏頭痛を感じていた人からはじめるか、
…
ということなのだ。
どのような基準で決める?
それすらも、あなたに任されている。
何から始めれば、
それと絡めたオチになる?
つまり最初の一文はオチと関係している。
オチに最も遠い伏線が、
最初の一文だからだ。
出来事自体は、
どこから語っても良い。
本能寺の変をどこから語っても、
出来事自体は不変であろう。
だけど、語り口によっては、
色々な物語になりえる。
下剋上がテーマの話でも書けるし、
裏切られた者の因果応報でも書けるし、
蘭丸と信長の悲劇の線でも書けるだろう。
時代の変わり目に現れるUFOの線でも書けるかもしれないね。
どこから話すかは、
つまり、
その出来事を、どの視点から見るか、
ということなのである。
あなたの作ったストーリーを、
そのような歴史上の出来事であると突き放して、
「どっから話すかなあ」と考えることは、
つまりはテーマをどこに落とそうとしているか?
を考えていることに他ならない。
単に自分の経験した時系列で話すやつは、
ストーリーテラーに向いてない。
その時系列を、
もっとも面白く見せられる視点を、
獲得していないからである。
あなたがぎゃふんとなった話だとしても、
その三日前の大阪のおばちゃんから話したほうが、
テーマがはっきりするならば、
そうするべきなのである。
どこから話すかは、
つまり、ここから話しておけば、
最後にここに戻れるな、
という読みでもある。
ただそれだとただのカンでしかなく、
外れることもあるから、
一回頭の中でシミュレーションをして、
ラストまで語り切れると分かった上で、
(ものによっては、とても細かい構成表を作り)
その最初の一文を書くわけである。
この話をするにあたって、
「小説家は最初の一文が…」の話をすると、
ここに落とせると思ったので、
そこからはじめました。
極論すると、
最初の一文は最後に書く。
それさえ書かれれば、あと出来ていることを順に書けば完成する。
執筆は、すでに出来ているものを文字化する行為でしかない。
最初の一文は「できた」という作家からの宣言なのだ。
2022年01月24日
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