宣伝は、一企業の営利活動であるが、
それだけでは宣伝として足りないと僕は考えている。
宣伝は、文化であるべきだと。
僕がいつも理想に描くのは、
バナナの叩き売りである。
いいバナナの叩き売りと、
下手なバナナの叩き売りがいる。
下手なバナナの叩き売りは、
これだけ安いと言って顧客のベネフィットを強調したり、
うまいよと言って品質の良さをアピールする。
あるいは、早く買わないとなくなっちゃうよ残り10個、
と急がせたり、
ちょっと傷んでるから割引だよとか、
沢山買ったら1割引とかする。
いいバナナの叩き売りは違う。
まず名調子である。
口上を聞いてるだけで幸せになる。
内容なんてどうでもよくて、
その名調子を聞くためだけにそこを通る。
内容は聞いていない。音楽を聴きに行くのだ。
そして、大抵バナナの話なんてほとんどしない。
全然違う「面白い話」をしてくれる。
うんちくだったりとか、近所の秘密とか、
世間話とか、踊りや歌などではない、
話芸を披露してくれる。
それが面白いから、人が集まるようになる。
客寄せパンダとは少し違う。
客寄せパンダはとくにバナナを売らない。
叩き売りは、売る本人、
商売する本人が面白いことをする。
つまり、信用を先に得ることをしている。
この人はおもしろい、この人は信頼できる、
じゃあこの人が勧めるものならば、
値段を見なくても、品質をチェックしなくても、
買ってもいいと思わせること。
そして品質に問題があったとしても、
次の日バナナの叩き売りのところへ行けば、
ちゃんと向こうは謝り、おまけをつけてくれて、
信用を回復してくれること。
「あなたと一緒に生きている、
おもしろい、信用できる、逃げない人」
こそが理想のバナナ売りである。
客寄せパンダは逃げちゃうからね。
下手なバナナの叩き売りは、
品質と利益とか、割引とか、妥協と押し売りとかの、
商品と消費者の間の、一次元の綱引きしかしていない。
そんなのどっかで最適解になるにきまってんじゃん。
あんたいなくてもそうなるよ。
いいバナナの叩き売りは、
金と品質の間の綱引きはしない。
(もちろん商売だからしないわけにはいかない。
面白い話がほとんどで、あとバナナの話は1割もしないだろう)
その綱引きはどこででもやることで、
それはおもしろくないことだと知っているからだ。
それよりも、
「自分のおもしろい独特の話が、
客を信用させている」
ことをやっている。
次元は金と品質の一次元ではなく、
それと別の次元の戦いをしている。
もちろん、そのバナナの叩き売りよりも、
十円でも安いバナナが現れれば負けるかも知れない。
でもそんなの短期的な勝ち負けにすぎず、
多少高くても面白い話をする人から、
信用できる人から買いたいと思うものである。
いわばその十円の差額は、
そのおもろいおっちゃんへの応援になるわけだ。
これが宣伝である。
宣伝は、信用されなければならない。
「あなたが言うなら買うよ」と言わせなければならない。
どれだけ安かろうが、
どれだけ品質が高かろうが、
それは宣伝とは関係がない。
ただのスペックだ。
そしてそのスペックで買う人は、
宣伝しなくても買うんだよ。
宣伝の仕事は、そんな人向けにはない。
それよりもずっと多くの、
「買おうかどうしようか迷っている人」のためにある。
その迷う人の背中を押すのは、
スペックじゃない。
信用だ。
この人の言うことならしょうがねえか、とか、
この人を儲けさせてあげたいな、とか、
この人になら、騙されててもいいやとか、
そう言う感情である。
ぶっちゃけ、その人を好きにさせることが、
宣伝の仕事だと僕は考えている。
手段はなんでもいい。
うんちくや、噂話が面白くてもいいし、
芸があってもいい。
この「おもしろい信用」を得ることを、
クリエイティブとよぶ。
広告からクリエイティブが失われている。
いい感じの映像に、
その会社の考えることをナレーターが読むような、
僕らが会社ポエムと呼ぶ手法ばかりだ。
そんなの面白いわけないじゃない。
新書になるくらい新しくすごい考え方ならおもしろいけど、
そうじゃない、どこかで聞いたものの組み合わせばっかりだ。
こんなの効くわけがない。
なぜなら、それは一企業の都合を押し付けているだけで、
文化がないからだ。
「おもしろい」とは文化である。
生活必需品を整え、最低限の生活ができるようになった次の、
心を潤わせることだ。
コロナで文化は不要不急とされたが、
その文化がないと、
どれだけ心が縮み、人生がつまらなくなるか、
痛感したと思う。
文化は余裕であり、文化は心の柱である。
多少の生活を犠牲にしてまでも、人は文化を求める。
なぜなら人には心があるからだ。
「女房を質に入れてでも」なんてのは古い表現だが、
それだけの価値が文化にあるわけだ。
文化は人を集める。
文化は人の心を豊かにする。
これはスペックの一次元問題ではない。
スペックだけで買う人はもちろん一定いる。
コアユーザーがそれだ。
だがマスを狙うのが商売だ。
どうしようかなあと思う人の背中を押したり、
全く興味がなかったのに、興味を持ち始める人を、
どんどん増やすのが、
マスを向いた宣伝である。
つまり、
宣伝はスペックを語るのではなく、
文化で人を集めるべきだ。
一次元ではなく、多次元の活動であるべきだ。
その方が効率がいいからだ。
これが、バブルから90年代いっぱいくらいに、
日本がたどり着いた広告宣伝のフィロソフィであった。
おもしろくなければ振り返って貰えないし、
ただおもしろいだけじゃ心に深く刺さらないし。
スペックを語るやつは、面白くないやつだとされた。
失われた20年の間に、
広告宣伝はレベルが落ちていく。
文化は余裕であり、企業に余裕がなくなったからだ。
(余剰金という意味での余裕があっても、
広告費という「無駄」に金をかけるべきではないと、
企業文化が変わってきた。
これはコロナで劇場を閉めたことと、
全く同じ愚かな判断である)
だから、
今宣伝に文化がない。
「宣伝に文化がない」が批判にならないくらいになっている。
「え?宣伝って文化が必要なんですか?」って、
若い宣伝部ならいうかも知れないね。
じゃあおまえ、バナナの叩き売りをやってみろ。
三年間やって信用されろよ。
あんたがバナナの現場から退いたら、
誰も買わなくなってしまったくらいに、
文化の中心になれよ。
それが出来ないから、
宣伝は文化を伝えられなくなってしまったのだ。
前置きが長くなった。
映画の宣伝は、かつて確実に文化であった。
「こんな新しい考え方、娯楽がある」と、
キャッチコピーで教えてくれた。
ジブリの「わすれものを届けにきました。」や、
「落ち込んだりもしたけれど、わたしは元気です。」
なんてのは、その文章自体が文学という文化だ。
「この宇宙では、あなたの叫びは誰にも届かない。」
(エイリアン)
「母さん、あの麦わら帽子、いったいどこへ行ったんでしょうね。」
(野生の証明)
なんて、真似して言いたくなる「考え方」が、
流行した。
映画ではなく、宣伝が流行したのだ。
バナナの叩き売りと同じである。
バナナはどうでもいい。
おもしろいやつがそこにいるかなのだ。
もちろん、優れた広告宣伝は、
おもしろい文化のふりをしながら、
実はバナナのことを言っていたのだ、
というカラクリがある。
糸井重里の名コピーは、そうした要素を多分に含んでいる。
宣伝は流行するか?
つまり、流行歌や流行服のようになるか?
なるべきだという考え方が、
今の広告宣伝部に、皆無だろう。
そして、もちろん、映画は文化である。
文化を売るのに、宣伝が文化的でないってどういうことだよ。
僕は長いこと広告業界にいるが、
もう誰も広告を文化だと思ってないんじゃないか?
文化をつくるのは映画やドラマや歌などの、
「本体」であり、我々は一企業のメッセージを預かっているだけだと、
思っているのでは?
かつてはそうではなかった。
「俺らはテレビよりおもしろい」といった名物が、
そこかしこにごろごろしていた。
だから広告から文化がたくさんうまれ、
その他の「本体」と競い合っていた。
映画の宣伝は、そうなるべきだ。
バナナがどれだけおいしいか説明してる場合ではない。
まずその予告や宣伝を夢中で見るだけの、
新しい組み立てを考えればいいのに。
ちなみに、
公式HPでスパイダーマンNWHのキャッチを確認したが、
「全ての運命が集結する」
ですって。へぼ。
バナナの話しかしてないやんけ。
帰るべき場所を失った怪人たち。
帰るべき場所を失ったピーター。
彼らは、元の場所へ戻れるのか。
スパイダーマン/帰るべき場所
この言葉を見て立ち止まり、
「帰るべき自分の場所はどこだろう」
と、スパイダーマンに興味のない人すら振り向かせるのが、
キャッチコピーの力である。
僕はコピーライターじゃないので、
上に書いたものは三行になってしまった。
でも機能することが優先で、
一行にすることが優先じゃないと思った。
「全ての運命が集結する」は、
一行で読めたとしても、
読んだだけでへぼいと思ってその場で捨てるからである。
ポスターも同様だ。
ブロッコリーつくってんじゃねえよ。
それはバナナをどれだけバナナに見せるかでしかない。
おもろいおっちゃんは、バナナとは違う話から始めるんやで。
大阪のおっちゃんに宣伝部が負けてることが、
俺には全く許せない。
そのおっちゃんスカウトしてこいや。
2022年01月23日
この記事へのコメント
コメントを書く