2022年02月18日

風呂敷は、後半に畳むのではない

風呂敷を広げるだけ広げて、
結局完結させられない物語の、
何と多いことだろう。

なぜそうなるのか。
風呂敷を広げて、そして畳む行為だと、
勘違いしてることにあるのではないかと思う。


極論すると、
第一ページ目から、
風呂敷は畳みに入っているのである。

風呂敷を好きなように広げてから、
「どうやって畳もうかな」と悩むからまちがいなのだ。

正しい風呂敷の広げ方は、
畳み方を考えて広げるのだ。

その伏線がどのように回収されるか、
わかっているから敷いて置けるのだ。
その世界が、今後どのように変化しているかわかっているから、
今その世界を描けるのだ。
その登場人物が、最後にどうなるか分かっているから、
最初にこういう人物だと示しておくのである。

あなたの白昼夢の通りに、
それらを好き勝手広げるから、
畳めないのである。

畳み方を考えてから、広げるのだ。
畳めない所は、広げないのだ。
逆に畳める確信があるから、
わざと大きめに広げて置くのだ。


三幕構成理論では、
まず設定し、それが展開して、
最後に帰結に至ると解説する。

それは見る側から見たものにすぎない。

作者側から見れば、
その帰結のために逆算して展開があり、
その展開と帰結のために、
逆算して設定がある。


観客は前から見るが、
作者は後ろから書いている。

折り紙みたいなことかな。
最後にこうなるから、
先にここから折っておくみたいな。

風呂敷を畳み終えた状態からスタートして、
それを逆回転して広げよう。
広げいっぱいは、ミッドポイントのあたりだろう。
そこから前半戦、
実際には風呂敷が広げられているが、
逆回転で畳まれていく様子を想像しよう。
最初の、風呂敷を広げる前に戻ったね。

そしたら、
最初の畳まれた風呂敷を、
最後の畳み方が上手くいくように、
広げていくのだ。

つまり、
風呂敷はただ適当に広げられているのではない。
畳まれる最後のために広げられている。
風呂敷をランダムに広げて、
それをうんうん唸って畳むのではない。
風呂敷の初手が、畳み始めだと言っても良いのだ。


無責任に思いついたシーンを、
オープニングから順番に並べて何が出来る?
それは畳まれることの一部ではないのだ。

片付けられる範囲まで散らかせ。

最初に頑張って散らかして、
泣きながら片付けるから、
片付くところまで完走しないのだ。

散らかしは片付けの初手である、
と考えれば、
最初のシーンがいかに大事かわかるだろう。
一行目に何を書くかから、
ラストシーンははじまっているんだぞ。
posted by おおおかとしひこ at 01:04| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。