脚本を書く際に、
カードを使って試行錯誤したり、
壁に色々貼ったり、
プロット全体の見取り図を書いたり、
複数の人数でそれらを扱ったりするものだが、
小説はしないんやろか。
頭の中になんとなくあって、
それを全部書き出せば、
小説はおしまいなのだろうか。
それとも小説でも、
脚本を書くときのあれこれパズルをやるのかしら。
一つ言えるのは、
小説はテンポを自分で変えることができるメディアだ。
詳細な描写で時間を進めないこともできるし、
時間を飛ばすこともできる。
あるいは、ストーリーが面白くなくても、
描写力だけで持たせることができる。
これによって、
純粋にストーリー進行だけに気を使わなくて済む要素があるかも知れない。
読者も、ストーリーのテンポだけよりも、
読書体験全体を重視する可能性もある。
文体が好きとかはそういうことだよね。
人気作家は、ストーリー進行だけで人気になるわけではない。
文体や雰囲気も含めての小説だと考えられる。
一方、脚本は、
ストーリー進行そのものの進行表だと言っても過言ではない。
小説と違い、1ページが1分の時間が流れる、
楽譜や列車ダイヤや、
式次第やスケジュールに近い考え方のものだ。
おそらくはこの差があると考えられる。
漫画は、一見一定のテンポで流れると思いきや、
実は読者で時間のテンポをいくらでも変えられるメディアである。
そこだけじっくり読んだり、
流して読むことができる。
ある漫画がアニメになったとき、
会話のテンポが原作とだいぶ違うと違和感を覚えることが多い。
頭の中の自由律に対して、異なるテンポで流れるからだろう。
つまり、小説や漫画を読むことは、
音楽を、途中でゆっくりにしたりテンポアップして聞くことに等しい。
動かないモノは、それを前提とした鑑賞方法なのだ。
(美術館のモノは、どれだけ時間をかけて見てもよいし、
どれだけ飛ばしても自由だ。
何回見てもいいし、一回も見なくても良い)
これに比べて、
脚本や音楽は、一秒に進む分量が決まっている。
美術館でいえば、一作品を必ず○秒で見る前提で、
小説でいえば、一行をかならず○秒で読む前提だ、
ということ。
なるほど、そんな美術館や小説はいやだね。
つまり、逆に言うと、
美術館や小説は、均質じゃないってことだ。
脚本や音楽は、均質な情報量の出力前提ということだ。
僕はよく、
駅までに歩きながらシークエンスを頭の中で再現することがある。
歩くテンポは一定だから、
一定のリズムで再生しやすい。
こうした工夫は、たぶん小説や漫画で、
絶対必要なわけではない。
だけど脚本では絶対必要だ。
脚本をつくるときに、
カードや壁に貼ったりするのは、
ストーリーの全体を眺めるためもあるけれど、
「全体のテンポ感」を作るためにやるのだ。
ストーリーだけを作るのなら、
小説や漫画や演劇でも、
同じやり方でできるはずだ。
しかし多分これらはやらないだろう。
テンポが決まってないからである。
(演劇も大体は決まってるが、
間を適宜買えたりして、一定しないだろう。
ところがオーケストラ演奏は、
BPMが守られている以上は、
どんな演奏でも演奏時間が同じはずだ)
テンポによってグルーヴをつくること。
これは脚本だけがやってることではないか?
そのために、
カードや壁に貼られたなにかが必要だと思うことだ。
小説や漫画のストーリーは、
大雑把に考えてあとは書きながらつくる、
なんて人もいるだろう。
それはキャラを描いてるだけで楽しい時間帯もある、
ということだ。
脚本はそうではない。
ストーリーの時刻表を書くのである。
正確に言うと、
ストーリーそのものと、時刻表が同時に書かれているのだ。
脚本を読む時は、
つまりは1ページ1分で読まなければならない。
そのように書かれているからだ。
120分のシナリオを60分で読んだり、
240分で読んではいけない。
「面白くてすぐ読み終えた」や、
「退屈で時間がかかった」は、
シナリオとして間違ってるということだ。
そのような特殊メディアだということを、
理解しておくべきだろう。
僕が脚本に詳しすぎて、
カード法や壁に色々書いたりするのに慣れてるからだろうか。
(数学者や物理学者はデカイ黒板に色々書くイメージがあるが)
あるいは小説や漫画は、
他人との共同作業をあまりしないから、
個人のやり方で任されていて、
「共通のノウハウの蓄積」があまりないのかも知れない。
その人だけのやり方で終わってたりするのかもね。
そういう意味では、
「どうやってストーリーをつくるか」
を共同作業で延々とノウハウが蓄積されてきた脚本業界は、
比較的「やりかた」を知ってるのかも知れない。
あるいは、脚本だけが何回も書き直されるイメージがある。
これも、時刻表と関係してそうだ。
2022年02月19日
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