2022年02月20日

3は1と2から導かれる

という法則。


まずはシーン単位で考えよう。

ファーストシーンとセカンドシーンは、
とくに連関がなくとも見ることができる。
(もちろん連関があってもよい)

あることが起こりました、
そしてまたあることが起こりました、
でよい。

ところが、
3番目では、
「さらにあることが起こりました」ではだめだ。

おそらく人の集中力は、
1、2、たくさん、
で出来ている。

3はたくさんという十把一絡げになってしまう。
2までは、まだ「1、2」で見れるのに、
関係のない3を並べると、
我々は「並べられた」という感覚になり、
それぞれの連関がないと知るや、
興味がなくなるのだと思う。


つまり、
3で、単に並べるのではなく、
1と2に関連した3になれば、
「話が繋がる」ということになる。

1ゆえの3とか、2ゆえの3とか、
12が合わせて3とか、
とにかく何かしらの「展開」が、
3になければ、
「話になる」にはならないと思うのだ。

逆にこれを利用すれば、
人間は2つまで前提提示には耐えられる、
とも考えられる。

ストーリーを編んでいくうえで、
どうしても連関のないものを提示する必要があるときは、
2つまでは何も考えずOKということになる。

ただし3は、1または2またはその両方と関係した何か、
であるべきということだ。


父と母を紹介します。
あと犬を紹介します。

ではだめで、

父と母を紹介します。
あと犬を紹介します。
この犬、父が拾ってきたんですよ。

だと1と3が連関があるので、
人は集中を切らさずに済むということである。


たぶん脳内に独立して保存できる要素が、
2なんじゃないかと僕は踏んでいる。

(人によってはもっと多いかも知れないが、
物語とはマスに向けたものである。
すべての人が得られることを考えるべきだ)


これは、
ファーストシーン、セカンドシーン、サードシーンでも同じだ。
ファーストシーンとセカンドシーンで起こっていることは、
全く別のことでもよい。
それが、3シーン目で連関を始めれば、
それがストーリーになるわけだ。

例:

1: 残酷な殺人事件
2: 刑事がホットドッグを食べるのに失敗してケチャップまみれに
3: その血まみれ殺人現場の捜査に、ケチャップまみれになりながら参加する

みたいなオープニングは、とてもよくあるだろう。
2と3のケチャップつながり、
殺人事件と刑事の捜査のつながり、
そしてケチャップの前振りが殺人事件の血だまりと関係して、
残酷なユーモアになるに違いない。

この場合、1と2は全く関係ない方が面白い。
3で、「なるほど」と思うからだ。
「そのための1と2だったのか」と分かれば、
「これは関係しているストーリーという糸のことである」
と認識して、
「ただ関係ないものを並べた123ではない」
ということがわかるはずである。

この3を新しく1と考えれば、
4はまた関係ないものを挟んで、
5で、1234のどれかと関連したものにすると、
「話はどんどんつながり、広がっていく」
ということになると思われる。

例:
(上の殺人事件に続いて)
4: 近所のラーメン屋が開店する
5: そのラーメン屋に刑事がやってきて、
 ケチャップまみれになってて困ったよと愚痴りながらラーメンを頼み、
 新商品トマトラーメンをうっかり頼んでしまう(天丼)

などだ。
殺人事件がフォークで行われていたとしたら、
レストランでナイフとフォークを持ちながら、
その殺人のことを刑事同士で話すシーンになるかも知れないね。

とにかくなんでもいいから、
連関があればよい、
くらいにゆるく考えておくといいだろう。

こうしたことで、
「ただ並んでいるだけではなく、
すべてが連関している」
という感覚になり、
「これはストーリーである」
と、我々は身構えて、鑑賞をはじめるのではないだろうか。

もちろん、
話す側は適当に連関させているわけではなく、
意図した連関で人を引き込んでゆき、
その行方を追うことがストーリーを追いかけることになるわけだが。


つまり、
話が繋がらないときは、
123の連関が途切れているということになる。
関係ないやつを3つ並べたらアウト、
という定石にして、
仮に繋がらなくても無理矢理繋げることだ。

そのうち、
次に前の何かと連関した、次に繋がることを思いつくだろう。
逆に、それを思いつくまで粘るしかない。

1と2は、誰でも書ける。
3を書き、そして次の3を書けるようにするべきだ。



これらはシーンで考えたが、
ブロックなどの大きな構造でも同じだ。

シーンごとは123の関係で繋がっていたとしても、
「ストーリー全体の大きなうねり」は、
前のブロックとの関係で語られるだろう。
前のブロックのどの要素が、
今ここと関係しているかがわかると、
ストーリーが進行している感覚になると思う。


(おそらくだけど、
三段論法は、この感覚の一部に含まれると思う)
posted by おおおかとしひこ at 00:27| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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