一幕はセットアップ、設定などという。
僕はこの名称は変えたほうがいいと思っている。
ただ設定だけしても、面白いわけがないからだ。
設定とはつまり説明で、
30分も説明されても、面白いはずがない。
仮にここから面白くなったとしても、
それまでにテンションは下がり、
信用を失ってるに違いない。
一幕で一番やらなければならないことは、
主人公のバックストーリーでもなく、
面白そうなシチュエーションの掘り下げでもなく、
内的問題の提示でもなく、
感情移入でもないと思う。
(ぜんぶ大事だけどさ)
たぶん一幕でマストなことは、
「結論への期待」じゃないかと思うんだ。
こういう場所でこういう事件がありました、
こういう主人公の話です、
他にこういう人もいます、
だいたいこんな日常世界です、
はもちろんやるべきことだけど、
それをやったからといって、
観客が前のめりになるわけではない。
(好みのものであればなるかもだが)
そうじゃなくて、
「この話の結論は、きっとこうなるのだろう」とか、
「この話の結論は、どこへ行くのだろう」とか、
落ちへの期待が、作れるかどうか?
じゃないかと思うのだ。
つまり、
オチに対する前振りを見せて、
それでオチを期待できているか?
ということである。
たとえば、
不正にあえぐ弱き者が設定されれば、
正しきをなすことが結論として期待される。
極論、「弱い者は生きてる価値がないのか?」
なんてセリフで前振りしてもいい。
そのことに対して、
「その逆のオチが待ってるんでしょ?」
と期待できるように作られてるか、
ということなのだ。
これは、
どんなタイプのお話でもそうだと思う。
これから話す物事の、
基本パーツ(人物、舞台、事件など)を並べて、
これが最終的にどうなるのか、
興味を最初に持たれていないものは、
最後まで興味深く見れないと思う。
つまり、
ツカミである。
ツカミとは、
派手な絵や、魅力的なキャラであるかも知れないが、
ストーリーへのツカミとは、
「この話の結論は、○○○なのだろう。
そういう話になるだろう」
と予測できた時ではないかと思う。
「なるほど、○○○という結論になるために、
これらの部品たちが配置されてるのだな。
よし、腰を据えて見てみようじゃないか」
となったとき、
人の心はその人の体を離れて、
物語空間に入り込むのではないか?
設定が見えた。
結論が予測された。
その「筋」が見えた時に、
「じゃあ本編を見ようじゃないか」
と腹が座ると思うんだよね。
そうじゃないときは、
「この話がどこへ行くか分からない」
状態にいるから、
どういう態度で見ればいいか、
不安なままだと思う。
不安が長く続けば続くほど、
よく分からなくなり、まあいいやと集中しなくなるのではないか。
そうではなく、
「これは多分こういう枠組みの話なのだな、
そしてこう終わるのだろう」が見えたとき、
中に入ってくれるのでは?
それは第一ターニングポイントだろうか?
僕は違うと思う。
始まって10分以内(できれば7分以内)が、
いいと思っている。
センタークエスチョンは、
ストーリーの具体的なゴール、
たとえば宇宙人を倒す、などだが、
テーマ、たとえば勧善懲悪ではない。
10分以内にセンタークエスチョンがわからなくてもよいが、
この話はこういうテーマに帰着するのだな、
と、ラストの読後感を期待させるものであるべき、
という話をしている。
テーマが勧善懲悪ならば、
悪の酷さをそれまでに描ければいいわけだ。
こういう始まり方をしてるからには、
この悪は倒されるのだろう、
そう予感した時に、
「じゃあどうやって?」という興味がでてくるはずだ。
「フェルマーの最終定理を証明しました」
と言われれば、
「じゃあどうやって?」ってなるよね。
どうやってかは分からないが、
結論が見えた時に、
人は中身に興味が出てくるんじゃないかと思う。
2022年02月21日
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