2022年02月21日

結論に期待できない一幕など意味がない

一幕はセットアップ、設定などという。
僕はこの名称は変えたほうがいいと思っている。
ただ設定だけしても、面白いわけがないからだ。


設定とはつまり説明で、
30分も説明されても、面白いはずがない。
仮にここから面白くなったとしても、
それまでにテンションは下がり、
信用を失ってるに違いない。

一幕で一番やらなければならないことは、
主人公のバックストーリーでもなく、
面白そうなシチュエーションの掘り下げでもなく、
内的問題の提示でもなく、
感情移入でもないと思う。
(ぜんぶ大事だけどさ)

たぶん一幕でマストなことは、
「結論への期待」じゃないかと思うんだ。


こういう場所でこういう事件がありました、
こういう主人公の話です、
他にこういう人もいます、
だいたいこんな日常世界です、
はもちろんやるべきことだけど、
それをやったからといって、
観客が前のめりになるわけではない。
(好みのものであればなるかもだが)

そうじゃなくて、
「この話の結論は、きっとこうなるのだろう」とか、
「この話の結論は、どこへ行くのだろう」とか、
落ちへの期待が、作れるかどうか?
じゃないかと思うのだ。

つまり、
オチに対する前振りを見せて、
それでオチを期待できているか?
ということである。


たとえば、
不正にあえぐ弱き者が設定されれば、
正しきをなすことが結論として期待される。

極論、「弱い者は生きてる価値がないのか?」
なんてセリフで前振りしてもいい。

そのことに対して、
「その逆のオチが待ってるんでしょ?」
と期待できるように作られてるか、
ということなのだ。

これは、
どんなタイプのお話でもそうだと思う。

これから話す物事の、
基本パーツ(人物、舞台、事件など)を並べて、
これが最終的にどうなるのか、
興味を最初に持たれていないものは、
最後まで興味深く見れないと思う。


つまり、
ツカミである。

ツカミとは、
派手な絵や、魅力的なキャラであるかも知れないが、
ストーリーへのツカミとは、
「この話の結論は、○○○なのだろう。
そういう話になるだろう」
と予測できた時ではないかと思う。

「なるほど、○○○という結論になるために、
これらの部品たちが配置されてるのだな。
よし、腰を据えて見てみようじゃないか」
となったとき、
人の心はその人の体を離れて、
物語空間に入り込むのではないか?


設定が見えた。
結論が予測された。
その「筋」が見えた時に、
「じゃあ本編を見ようじゃないか」
と腹が座ると思うんだよね。

そうじゃないときは、
「この話がどこへ行くか分からない」
状態にいるから、
どういう態度で見ればいいか、
不安なままだと思う。

不安が長く続けば続くほど、
よく分からなくなり、まあいいやと集中しなくなるのではないか。

そうではなく、
「これは多分こういう枠組みの話なのだな、
そしてこう終わるのだろう」が見えたとき、
中に入ってくれるのでは?


それは第一ターニングポイントだろうか?
僕は違うと思う。
始まって10分以内(できれば7分以内)が、
いいと思っている。

センタークエスチョンは、
ストーリーの具体的なゴール、
たとえば宇宙人を倒す、などだが、
テーマ、たとえば勧善懲悪ではない。

10分以内にセンタークエスチョンがわからなくてもよいが、
この話はこういうテーマに帰着するのだな、
と、ラストの読後感を期待させるものであるべき、
という話をしている。

テーマが勧善懲悪ならば、
悪の酷さをそれまでに描ければいいわけだ。
こういう始まり方をしてるからには、
この悪は倒されるのだろう、
そう予感した時に、
「じゃあどうやって?」という興味がでてくるはずだ。

「フェルマーの最終定理を証明しました」
と言われれば、
「じゃあどうやって?」ってなるよね。

どうやってかは分からないが、
結論が見えた時に、
人は中身に興味が出てくるんじゃないかと思う。
posted by おおおかとしひこ at 00:08| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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