物語に登場する悪役は、とても魅力的なことが多い。
おそらく、現実にいる悪い人よりもだろう。
なぜだろうか。
私たちの中に、「悪いことをしたい」という願望があるからではないか?
我々は「悪」という概念を、
成長に従って学んできた。
動物に善悪はない。善悪は人間の作り出した概念だ。
我々は善悪を学習してきただけだ。
だから、
時々、悪いことをしたくなる欲求はある。
「いや、これは悪いことだ」と止める心を学んだから、
大人になったのだろう。
だが、この「やりたい、いや、だめだ」
という枷を外すのが、悪役なのだ。
もちろん、ほんとうに悪いことをしているわけではない。
これはフィクションだ。
だから、どんな悪でもできるのである。
我々は、現実でなければ、
どんなに悪くもなれる。
(匿名のネットで、それを発散している人もいるだろう。
企業にクレームを入れる人は、一定数わざとそれをして発散している人もいるらしい)
だから、
その「悪になりたい」という願望を叶えるのが、
物語の中の悪役なのだ。
小さい悪では足りない。
釣銭をごまかしたり、浮気する程度の悪ではつまらない。
それは現実でやっている人がたくさんいる。
現実ではとても出来ない悪を、
フィクションの中で代償してあげるのである。
フィクションは犯罪抑止になるか?
という議論がある。
それをフィクションでみるから発散していて、
抑止になっている、という説と、
フィクションで見て憧れてしまうから、
真似して犯罪を増やしているという説がある。
前者はほとんどのフィクションを楽しむ大人に適用できると思うし、
後者はほとんど阿呆に適用できると思う。
子供教育に悪いから、などという理論は、
ポルノなどでもよく議論される。
つまり、
フィクション内で、
現実にはできないことを見て代償行為として、
欲望を発散させているのか、
それとも発散させてなくて、
真似するものとしてフィクションを見ているか、
という議論だ。
後者はあまりにもフィクションに対して理解が浅いし、
質の低いフィクションしか見ていないのだと思う。
フィクションの悪は、
それを見ることで、
「自分にも暗い部分があることを確認する娯楽」である。
だが、「それは悪いことであり、現実に自分がやったら大変なことになる」
ことも分って見ているわけだ。
だから、
その悪が倒されるところを見て、
「ああ、自分が悪魔に取り憑かれなくてよかった」
と安心するために、
フィクションの中の悪役はあると僕は考えている。
だから、「自分にはとても出来ないが、
もし自分にその能力があったら、
やってみたい悪」を、
悪役にやらせるといいと思っている。
悪のカリスマとは、
そういうものだ。
悪のカリスマは、現実にはいなくて、
物語の中だけにいる。
それは、代償行為という説明でほとんど解説できると思う。
同様に、ポルノの中にしかいない女優で、
普通に言ったらどんびきされるプレイを見ることで、
代償行為が行われる。
構造は同じだと思う。
(まあAVの真似したい、という欲望は同時に学習してしまうのだが)
現実での経験があればあるほど、
フィクションで発散させられると思う。
フィクションの真似をしたいなんてやつは、
現実での経験が足りていないやつだと思う。
それを、現実とフィクションの区別がついていない、
なんて簡単な言い方をする。
悪役を作ろう。
それは、あなたの悪の部分を核にしている。
なにも制約がなかったら、
法律も良心の呵責も、神の目も、世間体もなかったら、
やってみたい悪ってなんだろう?
他の人の、悪の願望って何だろう?
心の奥底に秘めていて、
外には出さない、とても個人的な欲望はなんだろう?
それをためらいもなく堂々とやる悪役に、
我々はしびれる。
自分じゃできないことをする人に、
我々は憧れる。
そしてその破滅を見て、
悪の願望がカタルシス(死)を起こすわけだ。
だから、悪のカリスマをつくったら、
生き延びさせてはならない。
なるべく残酷に殺すことだ。
そうしないと、悪の心がカタルシスを起こさないからね。
続編に生き残るなんてありえない。
そして続編に出てくる悪は、さらに願望丸出しの悪になるべきだ。
悪は人間の根源にいる。
それを浄化するのが、
フィクションの役割のひとつでもあると思う。
ざっくりいうと、悪を日々のおかずにするために、
フィクションはある。
その、悪違いをいろいろ考えることが、
人間を考察するということである。
悪の勝利バッドエンドにするような作者は、
このフィクションの役割を理解していないと思うよ。
2022年02月22日
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