2022年02月23日

なぜ完結させるのが難しいのか

書き始めることは誰でもできる。
最初の数行は最高に調子がいいのに、
ページが進むごとに勢いがなくなり、
まっまく進まなくなることは、
とてもよくあることだ。
プロットを組んでも、エンドマークまで書けることは、
慣れていない限り相当難しい。

なぜだろう。
僕は、人生経験だと考える。


人生経験を積めば完結させられるようになる、
わけではないと思う。

完結させることは、
「あることをはじめて、
終わるまでやること」を、
どれだけ経験してるかによる、
という意味だ。

たとえば部活。
部活なら、
始めて終わった経験があるだろう。
(部活をまだ続けてるのは、プロになった人だけだよね)

趣味はどうかな。
もう辞めてしまった趣味は、終わった趣味だろう。
男女の付き合いも、
いくつか始めて終わったものがあると思う。

さて、
それらは、どうして終わったんだっけ?


部活は、怪我してやめたのか?
三年になってなんとなくやめたのか?
趣味は?
飽きたから終わった?
女は?嫌いになったから?飽きたから?

つまり、大抵の「終わった」経験って、
ハッピーエンドじゃないんだよね。


あなたは、
「始めて、冒険して、満足のいった終わり」を、
人生経験でいくつしてる?
フィクションの物語では沢山してるだろうけど、
リアル人生経験としてだ。

バイトがハッピーエンドで終わったかな?
ある仕事のプロジェクトは?
会社員生活は?

なぜ物語が、
ある時間を区切るのかの答えがこれだ。

たとえば、
「小学校六年の時の、最高の夏休み」
についてなら、ハッピーエンドで終われるからである。

「あること」についてだと、
始めた理由はあっても、
終わった理由はハッピーでないことが多い。

だが、
「ある期間限定での、あること」は、
始めた理由があり、
ハッピーエンドで終われる。

物語は、これを扱う。



人生経験において、
うまく始まって、
ハッピーエンドで終わった経験なんてそうはない。

部活は途中で辛くて辞めたり、
趣味は飽きたり失敗したりして辞めたり、
女は幻滅して別れたりしてるわけだ。

だけど、
部活を始めて、ある大会に出場決定するまでとか、
趣味を始めて、ある達成をした話とか、
彼女が出来て、温泉旅行でピークを迎えるとか、
期間限定すれば、
ハッピーエンドのストーリーにはなる。

そして、
それはフィクションのストーリーとしては、
弱いんだよね。

フィクションのストーリーは、
もっと強烈な成功やハッピーエンドを必要としている。

映画を見に来たのに、
彼女が出来て温泉旅行がクライマックスになる話なんて、
がっかりじゃない?
部活はじめたのに、大会決めておわりかよ、
一回戦負けじゃんか、なんて映画はしょぼいよね。

現実経験での、
ある期間限定のハッピーエンドは、
フィクションの要求する強烈さには、
全然足りないんだよね。

もっと激烈な人生経験をしてる人もいるかも知れない。
そういう人のストーリーは、
伝記や実録になる。
マジかそんなことあんのかみたいなストーリーだ。

それに匹敵する嘘話、
それを超える激烈な冒険、激烈な人生経験、
激烈なハッピーエンドこそ、
フィクションに求められているものである。

つまり、
フィクションのハードルは、
現実の人生経験より高いんだよ。


現実の人生経験で、
理想的なハッピーエンドになり、
ああいい経験をした、人生ってなんて素晴らしいんだ、
これで大きく人生が変わったわ、
なんて終わり方をすることは殆どない。

だから、
ほとんどの人はフィクションのストーリーを、
完結させられないのだ。


もちろん、人を殺さないと殺人が描けない、
ということではない。
問題は妄想力だ。

あることが始まって、
ものすごいうねりのある展開を見せて、
見事なハッピーエンドになり、
こんな素晴らしい人生経験になる、
ことを、
妄想で作り上げなければならない、
という話をしている。


ある魅力的なキャラクターなら、
あなたの身の回りの人物を参考にして、
創作することができるかも知れない。

じゃあ人生のある時期限定のハッピーエンド型ストーリーは、
どう取材する?
色んな人の人生経験を、見聞きすることじゃない?

自分の人生経験だけを頼りにしていては、
いずれ貧弱なものになる。
だから、完結させられないのだ。


あなたは、
あなたの人生を物語にするのではない。

架空の人物が、
架空の物事をはじめて、
架空の冒険をして、
架空のハッピーエンドを迎えて、
架空の人生経験として、こんな意味や意義があった、
というものを作らなければならない。

その妄想は、
たかが自分の貧弱な「完結したハッピーエンド経験」では、
足りないと思うんだよね。

だから、
妄想力1000%で、
構築しなければならないのだ。
もちろん客観性は必要で、
主観マックスでやっていてはご都合主義だろう。


そんなに難しいのか。そうだよ。それが物語だ。


あなたは、カタルシスを味わったハッピーエンドを、
どれだけ経験しただろう?
マックスのそれを思い浮かべたまえ。

フィクションのカタルシスは、
それを越えなければならない。

だから、完結させることは難しく、
書き始めたはいいが、勢いがなくなるのである。

リアルな人生では、時計は勝手に進む。
創作物語では、時計はあなたが進めなければならない。
人生で時計を進めた経験なんてそんなにないでしょ。
だから最後まで時計を進められないのだ。
posted by おおおかとしひこ at 01:40| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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