2022年02月24日

畳み込む

現実の情報量よりも、
フィクションのシーンの情報量の方が、
圧縮され、最適化されているという話。


たとえば会議。
何時間もやり、何回もやる会議での決定は、
フィクションのストーリーなら1シーン、
2分から3分で決まるだろう。

たとえば女をバーで口説く時。
現実には2時間かかり、
あるいはそこにこぎつけるまで数週間かかることもある。
フィクションのストーリーでは、
1シーンの2〜3分で決着がつき、
次のシーンはホテルか朝だ。

現実の文脈では、
たくさんの無駄会話が行われている。
ある目的があったとしても、
フィクションのシーンのようにビシッと決まらない。
ぐだぐだと寄り道をして、
バシッと綺麗な結論にならないことが多い。

フィクションのシーンは、
ある目的、ゴールをビシッと決める。
そのために無駄なことをしない。

女を口説く時に、ペットの話を聞いたりしない。
(ペットから口説ける女なら別だけど)


言葉を変えれば、
フィクションのシーンは目的に対して最適化されている。
無駄を省き、合理的な、
詰め将棋のような段取りになっている。

もちろん、意図的に回り道してヤキモキさせることもあるが、
それも計算である。
ふつうは、最短最適最小のルートを通る。

そのために、情報は上手に畳み込まれる。
リアリティの範囲で、しかもコンパクトに切られている。

逆に言えば、
現実は冗長なのだ。


40年くらい前のゲームブックブームの時に、
興味深い本があった。

タイトルは忘れたのだが、
シャーロックホームズになって殺人事件を解決するゲームだった。
なんと付録に、ベーカー街の地図と、数日分の新聞がついていた。
それで住所や事件の背後関係を、自力で調べなければいけないゲームで、
該当する住所に行って聞き取れる内容や、
電話番号でたどり着いた話が本の内容になっていて、
莫大に無駄なものが書いてあり、
役に立つ情報や展開に辿り着けるのは、ごくごくわずかな確率、
という本であった。

だから事件と関係ない肉屋にたとえばいくと、
昨日の野球の話とか、奥さんの愚痴とかの話が延々載ってて、
調べるだけ無駄だった、という体験ごとの本だった。

事件と関係ありそうなところへ行くと、
何かしら手がかりになる話が聞けて、
それに関する新聞の記事を見つけたり、
その住所を調べてまたそこへ行く(電話帳もついてたんだっけ)、
みたいな繰り返しで、
行き詰まったら、
よくある刑事物みたいに壁に手がかりを貼りつけて、
地図に印をしてみたいに整理して、
また新聞をつぶさに読む、
みたいなのの繰り返しをするゲーム本であった。

(最後に解答編がついてたのかな。
難しすぎて諦めた記憶がある。中学生には難しかったか)

つまり、
「現実はものすごくノイズがあり、
そこに線を結ぶ快感」
みたいなことをシミュレートしようとしたんだよな。

今思えばとても大人的な娯楽だったと思う。
何日も何日もかけて、コーヒーでも飲みながら、
布団の中で、散歩しながら考える、
じっくりとした娯楽だね。
でも当時中学生のおれは、
さっさと結論が出ないのでイライラしていた。


現実の会議は、この本に似ている。
フィクションの中の会議は、解答編、
結び終えた線の状態をしている。

文字数で言えば何万字から数百字に、
100倍濃縮されるわけだ。


だから、情報は整理され、上手に畳み込まれている。
無駄、漏れはなく、
提供順も練られている。

登場人物は間違ったリアクションをすることなく、
正しい感情的反応をして、
理性的に結論へ最短距離でたどりつく。

雑味のない、とでも言えばいいのかな。


シナリオを書いていると、
現実の文脈を想像して、
ついついフィクション的には無駄な、
畳み込まれていない、
いわばだらだらとした原稿を書いてしまうことがある。

でもそれは「それがそこで起こっているように想像した」
結果であり、間違っていないとは思う。
それをうまく空中から結像できただけ良しとするべきだ。

問題は、
その冗長を放置することだけだ。


それは現実的にはよくある会話で、
現実で見ればやや性急な会話であったとしても、
フィクションの会話としては冗長である確率は、
99.9%くらいはあるぞ。


その現実的な会話を、
フィクションの会話へ洗練させよう。

最小限の手数にしたり、
情報を上手に畳み込むのだ。

提示順を変えるリライトをよくするのは、
このためである。


小説は文体が面白ければ、
それ自体を楽しむものであるから、
冗長であってもそんなに気にならない。
たとえば三島由紀夫の華麗なる文体は、
それを読むだけで幸せになれる。
ストーリーの展開は、これに比べればまったくのろい。

シナリオは、文体を楽しむものではない。
映画における文体は、
絵づくりであったり、音づくりであったりする。
シナリオはそれを書かずに、
ストーリーだけを書こうとするものである。

つまり、
妄想にある、
現実的な(冗長な)会話劇を、
シナリオスタイルに、
引き締めて書き直すことが執筆である、
とも言える。

小説とシナリオが異なるのは、
まさにこの部分であると僕は考えている。


シナリオは、
現実の人生体験と、
詰め将棋と、
どっちが近いか?

後者である。
posted by おおおかとしひこ at 01:51| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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