現実の情報量よりも、
フィクションのシーンの情報量の方が、
圧縮され、最適化されているという話。
たとえば会議。
何時間もやり、何回もやる会議での決定は、
フィクションのストーリーなら1シーン、
2分から3分で決まるだろう。
たとえば女をバーで口説く時。
現実には2時間かかり、
あるいはそこにこぎつけるまで数週間かかることもある。
フィクションのストーリーでは、
1シーンの2〜3分で決着がつき、
次のシーンはホテルか朝だ。
現実の文脈では、
たくさんの無駄会話が行われている。
ある目的があったとしても、
フィクションのシーンのようにビシッと決まらない。
ぐだぐだと寄り道をして、
バシッと綺麗な結論にならないことが多い。
フィクションのシーンは、
ある目的、ゴールをビシッと決める。
そのために無駄なことをしない。
女を口説く時に、ペットの話を聞いたりしない。
(ペットから口説ける女なら別だけど)
言葉を変えれば、
フィクションのシーンは目的に対して最適化されている。
無駄を省き、合理的な、
詰め将棋のような段取りになっている。
もちろん、意図的に回り道してヤキモキさせることもあるが、
それも計算である。
ふつうは、最短最適最小のルートを通る。
そのために、情報は上手に畳み込まれる。
リアリティの範囲で、しかもコンパクトに切られている。
逆に言えば、
現実は冗長なのだ。
40年くらい前のゲームブックブームの時に、
興味深い本があった。
タイトルは忘れたのだが、
シャーロックホームズになって殺人事件を解決するゲームだった。
なんと付録に、ベーカー街の地図と、数日分の新聞がついていた。
それで住所や事件の背後関係を、自力で調べなければいけないゲームで、
該当する住所に行って聞き取れる内容や、
電話番号でたどり着いた話が本の内容になっていて、
莫大に無駄なものが書いてあり、
役に立つ情報や展開に辿り着けるのは、ごくごくわずかな確率、
という本であった。
だから事件と関係ない肉屋にたとえばいくと、
昨日の野球の話とか、奥さんの愚痴とかの話が延々載ってて、
調べるだけ無駄だった、という体験ごとの本だった。
事件と関係ありそうなところへ行くと、
何かしら手がかりになる話が聞けて、
それに関する新聞の記事を見つけたり、
その住所を調べてまたそこへ行く(電話帳もついてたんだっけ)、
みたいな繰り返しで、
行き詰まったら、
よくある刑事物みたいに壁に手がかりを貼りつけて、
地図に印をしてみたいに整理して、
また新聞をつぶさに読む、
みたいなのの繰り返しをするゲーム本であった。
(最後に解答編がついてたのかな。
難しすぎて諦めた記憶がある。中学生には難しかったか)
つまり、
「現実はものすごくノイズがあり、
そこに線を結ぶ快感」
みたいなことをシミュレートしようとしたんだよな。
今思えばとても大人的な娯楽だったと思う。
何日も何日もかけて、コーヒーでも飲みながら、
布団の中で、散歩しながら考える、
じっくりとした娯楽だね。
でも当時中学生のおれは、
さっさと結論が出ないのでイライラしていた。
現実の会議は、この本に似ている。
フィクションの中の会議は、解答編、
結び終えた線の状態をしている。
文字数で言えば何万字から数百字に、
100倍濃縮されるわけだ。
だから、情報は整理され、上手に畳み込まれている。
無駄、漏れはなく、
提供順も練られている。
登場人物は間違ったリアクションをすることなく、
正しい感情的反応をして、
理性的に結論へ最短距離でたどりつく。
雑味のない、とでも言えばいいのかな。
シナリオを書いていると、
現実の文脈を想像して、
ついついフィクション的には無駄な、
畳み込まれていない、
いわばだらだらとした原稿を書いてしまうことがある。
でもそれは「それがそこで起こっているように想像した」
結果であり、間違っていないとは思う。
それをうまく空中から結像できただけ良しとするべきだ。
問題は、
その冗長を放置することだけだ。
それは現実的にはよくある会話で、
現実で見ればやや性急な会話であったとしても、
フィクションの会話としては冗長である確率は、
99.9%くらいはあるぞ。
その現実的な会話を、
フィクションの会話へ洗練させよう。
最小限の手数にしたり、
情報を上手に畳み込むのだ。
提示順を変えるリライトをよくするのは、
このためである。
小説は文体が面白ければ、
それ自体を楽しむものであるから、
冗長であってもそんなに気にならない。
たとえば三島由紀夫の華麗なる文体は、
それを読むだけで幸せになれる。
ストーリーの展開は、これに比べればまったくのろい。
シナリオは、文体を楽しむものではない。
映画における文体は、
絵づくりであったり、音づくりであったりする。
シナリオはそれを書かずに、
ストーリーだけを書こうとするものである。
つまり、
妄想にある、
現実的な(冗長な)会話劇を、
シナリオスタイルに、
引き締めて書き直すことが執筆である、
とも言える。
小説とシナリオが異なるのは、
まさにこの部分であると僕は考えている。
シナリオは、
現実の人生体験と、
詰め将棋と、
どっちが近いか?
後者である。
2022年02月24日
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